2008年5月 4日 (日)

2008年5月4日 主日礼拝「物ではなく、あなた自信」

<聖書:Ⅱコリント12章11-17節>
12:11 私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
12:12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。
12:14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。
12:15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
12:16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。
12:17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。

<メッセージポイント>

2008年4月27日 (日)

2008年4月27日 主日礼拝「イエス様の愛による自由」

<聖書:ヨハネ4章30-19,28-30節>
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」─ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである─
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

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2008年4月20日 (日)

2008年4月20日 主日礼拝「マイナスから始まる人生に幸あれ」

<聖書:イザヤ6章1―8節>

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

6:3 互いに呼びかわして言っていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。

その栄光は全地に満つ。」

6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

6:5 そこで、私は言った。

「ああ。私は、もうだめだ。

私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

6:7 彼は、私の口に触れて言った。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

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<山口師メッセージポイント>

新しい出会いを本当に今求めているか。

新しい出会いや人間関係を求めていくというよりも、世の中全般がなるべく限られた人たちとの関係だけに留まっていたいという人が多いのではないか。

結婚もそうである。結婚は安らぎであって、何で、家に帰ってまで苦労しなければいけないのか。

神様との関係はどうでしょうか。

神様にも同じことを感じていないでしょうか。

私たちに都合のよい神様にしてはいないでしょうか。

神様との出会いは、聖書の中ではそんなに穏やかにかかれていない。

神様と出会い、まばゆい光に照らされて、目が見えなる位、大きく人生が変えられたという人がいる。

あなたが本当に神様と出会うことを願うならば、あなたは生まれ変わって、新しい人生を始められる。

今日の聖書の箇所では、預言者イザヤを通して神の出会いをみていきたい。

短い箇所だが全く反対のことが書いてある。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

5節では、「ああ。私は、もうだめだ。

と自信を失っていた。絶望に沈んでいた。

ここにいます。私を使わしてください。と このイザヤを変えられたのは何か。

救いによる。

何から救われたのか。

借金地獄?家事の危険?

滅びからの救いです。

もう駄目だという状態からあなたを救う。

聖書の救いは、私たちを変えて、喜びを与えてくださる。

人が救われて新しい人生を歩むには何かが必要。

それが神との出会いである。

出会いというのは、何か特別な体験をすることなのか。

イザヤはどうだったのか。

二つの理由を言っている。

1)私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

2)しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

イザヤは堕落した民より自分の方が上だと思っていた。しかし、神からみれば汚れたもの。

神は気のいいおじいさんではない。真の主権者である。

この神を見てしまったのだから死を意味する。

完全の清さをみて人は死ななければならないほどである。

もうだ目だという。マイナス的なイメージを、もっとポジティブな生き方をしなければならない。

もう駄目だと思ったこと。これこそがあなたが救われるためには必要なこと。

自分には罪があることを知ることが私たちの人生を変える第一歩。

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

主は救いの手をさしのべた。神はそのままにほってはおかれない。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

祭壇は神様に生け贄を捧げるためのところ。

贖われた=罪が覆われた。

これによりイザヤは神の前にああもう駄目だということの必要がなくなった。

これが罪からの救い。

この燃えさかる罪は、イエスキリストの十字架が救いとなって、私たちの罪をとり除いてくれた。

Iぺテロ2:23をみましょう。

このような歩みの中に入れられる。

この救いがどのように変えられていったか。

イザヤに始めて主のみ声が聞こえてきた。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

イザヤは救いによって変えられて、私をつかわしててください。といった。

神様のあわれみの救いが為されるときに変えられる。

大きなききめがある。

教会に来て優しい関係を楽しむことで終わるのではなく。

真の神とで会っていただきたい。

神は私たちに素晴らしい世界を用意してくださっている。

自己中心に気付きその罪を感じてください。

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2008年4月13日 (日)

2008年4月13日 主日礼拝「弱いときこそ、強い」

<聖書:IIコリント12章1-5>
12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

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<メッセージポイント>

信仰者は弱いときこそ強い? 奇妙? 絶対者なる方のみことばは、人間には逆説となる。これは人にはつまずきとなるが、苦難に満ちた人生を歩むものにとっては、大いなる励まし。パウロは積極的に自分の弱さ・痛みを誇り、キリストの力が宿ることを願う。「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」-この不思議に少しでも近づこう。

<詳細>
日本では昔から火事場の馬鹿力といわれる。
とっさの時には、とてつもない力が発揮されたり、痛いものも感じなくなる時がある。
今日は、「弱いときこそ強い」というテーマ。
聖書は神の啓示で書かれたもの。時には逆説的な表現を用いることがある。聖書の神がいるからlこのような表現がされる。
パウロがユダヤ教のキャリアであったら、弱いときに強いとは言わなかっただろう。もっと自分を誇っただろう。しかし、キリストのしもべとなった。キリストにある栄光は苦難であった。
自分の心が痛むことがキリストの僕としての栄光。
彼は神の啓示を受けた。誇ってもいいし、自慢してもいい。しかし神様はそのような経験を与えておきながら誇り高ぶらないように体にとげをおいた。
パウロをへりくだらせることになるが、高ぶることはないのに、とげをおいた。
肉体のとげとは何か。いろいろ学者が研究しているが、頭痛、目の弱さ、マラリヤ、てんかんなどと言われている。
パウロは人々から見た目にもいやがられる面があった。
突然発作的に襲ってくる。いつものことではない。間欠的に襲ってくる。
これさえなければ、もっと有効な働きができたというとげがあった。
パウロはこのとげを取り除いてくれるように3度も祈った。そして神様は取り去ってくれなかった。しかし、私の恵みは十分である。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
痛みの中で、功績を出せ。共にいてみわざをなされるのは、神である。
俺がやったという誇りがないように肉体のとげを与えた。
旧約聖書でも同じlことをいっている。ギデオンが戦ったときに敵にた対して12万対3万3千人を300人まで減らした。それは自分達の力で買ったということがないように。
肉体のとげ。→ 杭
キリストの十字架とはもともと杭。
パウロは最初主の意図をしらずに3度もとげを取り去って下さいと祈った。
パウロと神様との関係。
弱さにいきる。弱さこそキリストの力が完全に現わされる場だから。
私が弱いときこそキリストにあって強い。
人生を振り替えってみるとあの時はよく頑張ったな。いまなら無理だけれどということがある。
キリストの働きはキリストのささえ。弱いときに発揮される。
パウロだからこうなった。
神様は神様のみ心にかなってあなた方にふさわしいみ恵みをおあたえになる。

2008年4月 6日 (日)

2008年4月6日 主日礼拝「パラダイスに引き上げられて」

<聖書:IIコリント12章1-5>
12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に─肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、─第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、─それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、─
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

<メッセージポイント>

パラダイスー元々創造された人間と神との交わりの場。そこから開放された人間がキリストの贖いに酔って祝福を回復されるところ。パラダイスに引き上げられたパウロの経験は、パウロ自身に与えられたもの。誰にも奪われない、キリストにあるあなた自身のもの。キリストにあって歩み続け、ついにゴールへ行き着くべく、この祝福から離れないようにしよう。

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2008年3月30日 (日)

2008年3月23日 主日礼拝「自分の弱さを誇る」

<聖書:IIコリント11章23-33>
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむ
ちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
11:31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。
11:32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
11:33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

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<メッセージポイント>
パウロのキリストの信任状は傷痕。そのもっとも最たるものは教会へのたましいへの心づかい。主に従う者たちが、そのやさしさの故に必然的にになう痛みをパウロもになう。この痛みをになうことは、キリストもになわれた故に、誇りである。痛みをになう弱さの中に、主の支えとみわざがあらわされる。これは尋常ではないことー隠された神の奥義。


<詳細>
このキリスト教の歴史は2000年になる。日本でのキリスト教は短いのですがそれなりに受け入れられている。クリスマスや結婚式。あえて、キリスト教でという人もいる。またキリスト教の葬儀に感動される方も多い。しかしこれらは外から見えること。キリスト教の中身は見えない。
中身は何か。十字架にか勝手死なれ、そしてよみがえるという中身は隠されている。キリスト教の教会においてですら隠されているかもしれない。
しかしこれは分かる人には分かるが、かくされている。
コリントの手紙では、キリスト教の隠された大切な部分をい語っている。
すでに、見てきた。「誇り」。私たち誇りを傷つけられることがある。クリスチャンでも傷つけられ離れる人もいる。
信仰者花にを誇るのか。
主を誇る。主なる紙を知っていることを誇る。
羽うロハキリスト虚言うの隠された部分を妙な言い方をしている。
今日の聖書の箇所では自分の弱さを誇る。
謙遜、自分の罪を認めキリストに救われたも者は謙遜になる。
本当の意味で神様の前で自分は弱い人間という謙遜であればよいが不利をしている。思い込んでいるだけだと、はなにつく。昔から謙遜傲慢といっている。
パウロの自分の弱さを誇る。というのはどういうことか。
自分をダメ人間です。と誇りを傷つけられる。
自分の弱さを主が助けてくれる。主が私の弱さに現れてくれる。

パウロがあれだけ苦しんでできた。
日本の宗教の場合、その人個人の偉大修行を褒め称えられる。
パウロもそうだったが、性格の違った苦しみ。
教会への心配。一人一人の信仰に対する心配。
日本の修行僧が他の人のために何かを矢田かというおほとんどが自分のため。
パウロが苦労したのはすべて、人間のこと。
現代社会でも、セクハラ、パワハラ、とか苦しんでいる人がいる。
教会に来る人は人を見る目が厳しくなる。祖の炒めに苦しむことが多い。
人間のたましいのためにパウロは苦しんだ。
教会に来る人は何かを考えているとか何かを気遣っている繊細さを持っている。祖のために苦しむ人もいる。自分の潔癖さのために、他の人を受け入れられなくなる。

パウロの痛み。
紙を信じる、仕えるというのはどういう意味。
自分がつぶれてしまう位に苦しむ。
痛んでいる自分のそういう弱さを誇り、喜ぶのだ。
それはなぜか。痛んでいる弱さはキリストにおいてはダメではことではない。キリストが担っていたことと同じ。
キリストの僕、キリストのために苦しむ弱さ。
パウロは苦難や自分の弱さを誇る。最後のところでパウロは二つのことを行っている。
なぜこんなことが出てくるのか。上記の苦しみのうちのひとつの事件について思い立ったように語った。最初の迫害だったから。みっともない毛件をしたから。語っておる。
逃げ出すといったみっともない夜連れ出されて窓から逃げ出した。逃げ出して助かった。
主が与えてくださったから主を誇りとし、喜んだ。
キリスト教の外面の華やかさとは裏腹に、中身はキリスト教の苦しみ、痛み、復活。尋常ではない。隠されている。紙を知りたいと願う人に隠されている。
神様の愛を分かりたいと思うものだけにしか開かれていない。主から与えられている歩みを全うしたいと思う。

2008年3月23日 (日)

2008年3月23日 主日礼拝「主にあって死ぬ死者は幸い」

<聖書:ルカ24章1-9> 24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。 24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。 24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。 24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。 24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」 24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。 24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。 Image_039 <メッセージポイント> 後期高齢者になって死を考えるのではなく、聖書は誕生から死後に至る全てに死を組み入れる。命を造り、支配される神は、「死んだ後裁きを受けること」、「主にあって死ぬ者は幸いである」と言う。この死について明確に語る根拠はイースター。これは人のかんが得ることのできなかった神の奥義。人の齢を一息で終わらせる神こそが人生を確かなものとする。 <詳細> イースターおめでとうございます。 クリスマスに比べると普通の人には、言いにくいお祝いのことばです。 主が日曜日によみがえられたので、毎週教会では、礼拝をして、イースターを祝っているのです。でも、今日は一年の中でも、特に、イースターを記念した礼拝をおこなって、特別にイースターを考えていこうという日です。 私たちの行政は、年齢に分けてサービスが行われることが多いです。75歳以上は、最近、後期高齢者と呼ぶことになったようです。一般には評判が悪いようです。ついに年齢の断崖に追い詰められた感じがするということだそうです。皆さんの中に75歳以上の方がいらっしゃいますがどうですか。末期高齢者ならわかるがどうでしょう。 古代インドでは、4つのパートに分けていたようです。 0~25歳までは体を鍛える。 25歳~50歳は働いて、家族を養う 50歳~75歳は真の生きがいを見つけて生きる 75歳~100歳は自らの死について考える  ということだそうです。 聖書では、生まれた時から死に至るまで、自分の死について考えています。 なぜかというと、かみさまが語っているからです。いのちを与えた神は、人を地に帰らせます。しかし、人の生を確かなものにされます。 聖書の神だけが明確に語られています。24;1~8は毎年イースターの時に読んでいるところですがもっともイースターのことをはっきりと示しています。 初めて読んだ人は驚かれると思います。頭のいい日本人は、これは、宗教だから、なんらかの真理を教えるために、女たちが墓に行って見たと切り替えます。多くの人は疑問に思うでしょう。なぜこのような非科学的なことを言っているのか。かなりの人が一度や二度こういう経験をしているのではないでしょうか。 イエスさまは、クリスマスに生まれて、30歳になった時に十字架にかかって、死なれ墓に埋められたがよみがえってしまった。 いったいどう考えたらいいのか。 人間の能力やリセでは理解できる神であったら、その神がどんなに優れていても人間以上のものではない。 パスカルという人は人間には2つの行き過ぎがある。 ① は理性を全く排除すること。②は理性しか認めないことである。 ① は感情の高まり、盲目的で単純なものになってしまいます。鰯の頭も信心からということです。 ② は信仰を頭から否定することになります。理性の最後の大切な一歩は何か。私たちの理性を超えたものがこの世にはいっぱいある。私たちの理解を超えたものが無限にある。そこから始まる。 われわれは、理性をもって、キリストの受難と復活を次にように思っている。 キリストは先週の金曜日、十字架上で死なれた。律法学者がキリストのいやし、奇跡に対してにくしみやねたみを持って十字架に架けられた。 お前がキリストなら十字架から降りてみろといった。黙々としてしなれた。弟子たちはみんな逃れ隠れていった。 なぜ神は沈黙されたのか。イエスが死に墓に葬られるのをそのままにしていたのか。そこには誰も考えられない奥義があったのです。 奥義とは、神のみが知る考えです。 イエスが、宗教家から憎まれて殺されたのは、実は神がそうなさったということであります。 神の奥義は人々の憎しみによって殺されたのだが、それは神の救いの歴史ではあなたや私の罪の身代わりとして完全に死なれたのである。 神の奥義には人間はかかわれない。聖書のみが私たちにそれを伝え、わたしたちは従う。 神は、キリストを天地万物の創造主の死から救われました。 もしキリストがよみがえらなかったら、その後、弟子も、聖書もキリスト教もなかったと思う。エルサレムでしぼんで消えてしまったであろう。 キリスト教はほかの宗教と違う独自のものを持っている。2000年前と同じことを今日私は皆さんの前でお話をしているのです。聖書があるからです。聖書は変わりません。同じことを語っています。 人が死んだ時、我々は「ちよっと不幸があって」と言います。聖書の黙示録14章13節で、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』と説いています。死はだれにとっても歓迎される出来事ではありません。本来人は、死ぬことのない者として作られました。ところが、アダムの罪によって、滋賀入り、だれもが死ななければならなくなりました。 それから死=不幸なこととなりました。 四国で牧師をしている人が誤って車で海に落ちて命拾いをしたという話があります。死にたい、死にたいとそれまで言っていたのが、いざ死に直面する時には死ぬのは嫌だと思ったというのです。なぜそう思ったのか。このまま死んでしまったら、今までのろくでもない人生に決着がつけられては困ると思ったということです。瞬間的にそう思ったのです。 聖書には有名な言葉があります。へブル9章7節「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」 人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっています。 死に希望がなく確実にやってくるのが死である。死は不幸そのものである。 今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。不幸なはずの死を幸いに変えたものは、イエスキリストの十字架による罪の購いであり、主が勝利されたという復活の事実があってこそであります。死ぬことさえ、主にあって幸いである。 死ぬことは、わたしたちにはどうしようもないことであり、死を支配するかたに頼るしかない。 キリストにあって死ぬ者は幸いである、決してイエスは死の中に閉じ込められていなかった。 私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。 太宰治は今も人気のある作家です。突き詰めた生き方、それゆえ死んでしまう。太宰と聖書について、独特な関係がある。彼は良心をもって聖書を読んだ。しかし、読んでみると、つまずきしかなかった。あなたの敵を愛しなさいとかとてもできることのないことを求めてくる。聖書に悩まされて絶望をする。絶望するのはよく読んだからこそ。人は一度死ぬこと、死後に裁きを受けること。キリストのよみがえり、主に在ってキリストは死なれた。これは絶望である。 キリストの十字架、復活を私たちは信じているが、新の永遠のいのちにいたるものである。 死はどうしようもないことだが、よみがえれた主により頼むしかない。イエスをしんじているものは、イエスと同じように、しんでもいきるのです。 そのお方にお会いするために日曜日に礼拝に来る。この一年間も主にお会いするためにこの礼拝を守っていきたい。 Image_061

2008年3月16日 (日)

2008年3月16日 主日礼拝「下がれサタン」

<聖書:マルコ8章31-33>
8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

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<メッセージポイント>
『下がれ。サタン』とは、神との断絶宣言に等しい神の怒りと悲しみの叫び。ペテロがサタン呼ばわりされたのは、神の愛の苦しみーーー人に真のいのちを与えるための苦しみーーーーを単なる人間の不幸や苦しみのレベルまで落とし、神のみわざを否定したため、自分の罪のすざまじさと十字架に心閉じる者ではなく、開いて、キリストを迎え、キリストの十字架を負うものとされよう。

<詳細>
今週は受難週であります。
年に一度、全世界のキリスト教会は喪に服するときです。何の喪に服すかというと、イエスキリストが十字架にかけれたことで喪に服するのであります。
キリストは私たち人間に自分の十字架を背負って私に着いてきなさいと言いました。
十字架を背負うとは・・・。今日、日本では、自分の十字架はキリストを離れて一人ひとりの人生の苦しみという意味で使われることが多い。人は生まれた時から運命的に背負った苦しみがある、そういう意味で十字架を背負うというのが一般的である。しかし、本当は、2000年前に、負われたキリストの十字架を負うという。
キリストについていきたいと思う人にのみ言える。そうでない人は自分を捨て十字架を背負うことはできない。
ペテロはどう思ったか。人間の苦しみのレベルで考えようとした。イエスはペテロに対しておまえはサタンだ。下がれと言われた。
もう一つ、イエスがサタンに対して言われたのは悪魔の誘惑に会われた時のことである。人間の通俗的な判断を否定された。神なら高いところから飛び降りてみろ。じぶんが食いはぐれることなく安全に羽振り良く過ごせることを誘惑した。サタンの誘惑にのらないようにサタンよ下がれといった。
今日の「サタンよ、下がれ」は、どういう意味かというと、これから苦難んお道を歩むイエスを妨げようとしたペテロに対して、下がれと言われた。イエスが神の国のことを伝え多くの人を癒した。ガリラヤの春といわれる素晴らしい時。この春が終わって、これから自分の苦しみについて語られるようになるところがある。今日のところは苦しみの予告を聞いた時。
ペテロがイエスの十字架を聞いた時、「主よ、とんでもありません」といった。そこでイエスは振り向いてペテロに対して、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」といったのである。これは罪の原型である。まず、神のことを信じ、神のことを考える。これが第一である。神のことを思わず、人のことを思う。人のこと、イエスのこと、自分たちのこと。イエス様のような立派な方が宗教家たちに捕らえられてはならないと思った。イエス様という先生がイスラエルで偉くなくてはならないと考えていたのに、十字架にかかられては敗北ではないか。すべてを捨てて、ついている私たちはどうなるのか。⇒人間的なレベルのことしか考えていない。あなたが考えているのは、人のことだけ。これが罪の原型。
神様のことを思うことはこの時、何を意味しているか。御子イエスを十字架につける神の愛の苦しみを思うということである。
神の愛の苦しみとは・・・私たちに本当のいのちを与えるために神が苦しまれた。これを否定するのは神様の愛を否定することだから、イエスは下がれとペテロに厳しくいった。
イエスキリストはエルサレムに上って行き、最高議会によって十字架に変えられる必要があった。何のために?私たちの罪のため。イエスは罪びととされ罰を受けた。私たち人間のために身代わりとなって、代償となってくれた。
贖いを済ませて、神様を私の関係を怒りや敵対から、許しと和解に変えてくれた。これ尾を救い主イエスキリストという。
ある意味弟子たちに、バサッと言われた。この心理は当時をよく知っているユダヤ人でも理解できないからだ。一緒にいたペテロでさえ、理解できなかった。
すでに、イエス様のことを弟子には生ける神の子キリストですと告白したペテロですたわからなかったのである。よく理解できなかったゆえに、善意からいったのだが、ところがイエスは即座に叩きつけるように言った。「下がれ、サタン」。
先生の弟子に言うような言い方ではなかったと思う。ペテロの善意から出てきた言葉に対してこの手きびしさはどうか。
今まで、これだけ尊敬し、つながってきたことが全て、否定されるように見えた。神様との断絶にもなる。なぜ、かくもそのように厳しいのか。
御子なる神がこれから起ころうとしていることの絶大なる意味。イエスがペテロを諌めたのは神様がなさろうとしたことを配慮したことである。人類の始めから神様が考えたこと。ペテロのため祈ろうとしているイエス様の邪魔をしたのである。
あの贖いの尊さを全く感じない鈍さをペテロが示していたからである。これだけ教えたのに、まだ自分たちには贖いが必要ないといわれるのか?と激しく叱責された。
私たちは今受難週に入っている。イエスキリストは神の子であったが、この十字架の道こそは、キリスト教が何であるかの道筋をつけることになる。これが根幹である。このキリストを否定してしまったのではだめである。
このイエスキリストに従った人が絶えす伝えられ、実行した人がいたので、2000年の後の今も、キリストが伝えられている。

津和野の乙女峠でキリシタンの改宗の説得がなされた。棄教を拒むと拷問が加えられる。
32目の殉教者が出た。彼らが過酷な受難で耐えた秘密は何か。イエスキリストの十字架そのものである。
御子イエスキリストが私たちの罪のために十字架につけられて亡くなった。これを思うと拷問も当然と考えた。
津和野、長崎、 下がれサタン神の断絶、滅びを知っていた。神と断絶し、滅びていくくらいなら、死ぬことは何でもない。世の民のために迫害されている人は幸いなのである。
サタン、殉教は時代遅れ、ばかげたこととしか現代人には思えないかもしれないが、イエスキリストが十字架にかかって死なれたということは変わりない。
この愛の真実は多くの人には、隠されている。あまりにもむごいから人の罪もむごいのである。むごいので見たくない。だから神の救いは隠されたものになってしまう。聖書を読んで、少しでも心を開かれた人には広く、閉じた人には永遠に閉じられている。
断腸の叫びをペテロに対している方。下がれサタン。私たち今日も教会に来ている。受難の週に生きる。
あの十字架に心閉じるものと開くものとがいる。開く者のところに、イエスキリストはお迎えに来る。
私たちは、いつも、開く者になっていたい。

2008年3月 9日 (日)

2008年3月9日 主日礼拝「イエスはガリラヤ全土を巡って」

<聖書:マタイ4章23-25>
4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。


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<斎藤牧師 メッセージポイント>
42節「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
イエスさまは、ガリラヤ全土を巡ったが、歓迎されたところもあれば、そうでなかったところもあるだろう。また、イエス様はみんなを集めることができたにもかかわらず、あえて、自ら足を運んで各地のひとりひとりのお会いになった。全土を巡るということは大変なことであったに違いない。それは一人ひとりのところにおとずれて、福音をつたえるためであった。イエス様の救い主としての使命がそこに示されている。
イエス様は、まず、人々に教えた。
人は自分が罪人であること、それに囚われていて、そこから逃げ出せない現実を受け止めなければならない。人は神と和解して救い出される。
イエス様がガリラヤ地方に何をしに来たか。それは、まず、イスラエルの民たちを教えることであった。神の福音の約束をであった。第一にイスラエルに向けられたことは、イエス様がこられてのちは、その制限がなくなった。わざわざガリラヤにいる異邦人にもみことばを伝えることを考えてのことであった。
福音とは良い知らせのこと(キリストについての)である。
「宣べ伝える」と「教える」の違いを強調することは必要ない。共通する部分がかなりあるからだ。
「会堂で教える」とは、すでに進行を持っているユダヤ人がさらに、正しい理解を持つためである。
「福音を宣べ伝える」はまだ、キリストを知らされていない人々、異邦人へ伝えたのである。
ユダヤ人は唯一の神を信じてきたのでイエス様を神様と理解するには、教えが必要であった。
また、ガリラヤ地方の人々にもっと福音を伝えるべき人が多くいる。キリストによってもたらされる神の世。主の扱い、宣教と教えの段階がここに示されている。
3番目として民のあらゆる病気の癒しがなされた。イエスのいやしは、完全で、おことば一つでなされる。神の証拠としてなされたのである。力ある神のご支配、何でも解決できることのあかし。
私たちが主に向かうなら神は必ず、私たちにかかわってくださる。イエス様は神の国が地和いてきているのを実証された。
私たちは必要以上に病を自分の罪の結果と考え、裁かれることが多かった。しかし、そこにも神の許しの恵みはとどいている。
今の病の苦痛が、自らの罪からこようが悪魔のしわざであろうが、神の支配のもとでは、簡単に打ち砕かれる。神の支配のすべてを私たちは理解できないが、そこに、神の主権と節理が働いている。
キリストは教えを語るだけでなく、癒しを行いながら、ガリラヤ全土を歩かれたのは興味深い。
私は、イエスに向かわせる。イエスが去った後も、みことばが私たちを助けて下さる。
主のみわざは常にキリストと神の栄光を表すものである。
主の語るみことばが人々の心にとどまらなければならない。
マタイ8:8
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。

詩篇107篇20,21節
107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
107:21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。
イエス様による神の国のご支配の表れがある。いやされたものが単に病気だけではない。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

イエス様はガリラヤ地方で宣教をはじめたばかりだが、うわさになり、シリヤ全体に広まっていった。(ガリラヤより北)
その結果さらに、広い地域の人々が主のもとにやってくることになった。

4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

デカポリス、エルサレム地方だけに広まっているのではなく、パレスチナ全体に広まった。
イエス様の名は知れ渡り、大勢の群衆がイエスにつき従った。
病によるいたみにとどまらず、人間の苦悩が含まれている。
あらゆる種類の病人が連れてこられた。

私たちが心にとめておかなければならないことは、主が私たちに何を望んでいるかということである。
病気であることが当然ではなく、それがいやされて、健全であることをイエス様は願っている。
神の国がイエス様とともに存在していることを目に見える形であらわしている。
癒しの奇跡 恵みと憐れみのゆえに許されていること。イエス様が生き巡って伝えていた地域を越えて、人々が集まってきた。デカポリスとは十の町々が同盟を結んでできた町。ヨルダンの向こう岸、異邦人がたくさん住んでいた。イスラエルの北方地域の人たち。
主の救いを受けたものとして大事なことは、本当の病を患っているというだけではないく、わたしたちが罪の中にあるということである。
イエス様は、わたしたちを罪の中から救ってくださった。
神様との交わりにみちびいて下さる方。イエスのいやしは結果としてガリラヤ全土から人々を集めた。人々の足を運ばせた。そして期待していなかったことを見させてくれた。
最初は、いやし、そして悔い改め。心身の癒しを通じて、心も救ってくださった。
彼らの多くはしばらく突き進んだが、顧みられることはなかった。おエスの妨害的なうわさ。人気や評判はあてにならないことを知って神に忠実に信仰深く歩むことを願っている。
人々を教え、みくにの宣教をされた神のめぐみがここにある。
その主は、今も私たちの心に働きかけて下さって導いて下さる。
私たちの心が開かれ、信仰を通してしゅくふくされるものへと変えられていく。
15節最後のつき従ったといゆことばはイエス様の弟子になることも含んでいる。
私たちの信仰はどうか。
私たちのキリストの十字架がついていなければならない。しかしまだここでは示されていなかった。
今日、私たちにはみことばによって十十カが示されている。

2008年3月 2日 (日)

2008年3月2日 主日礼拝「傷痕の信任状」

<聖書:Ⅱコリント11:21-27>
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、─私は愚かになって言いますが─私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

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<メッセージポイント>
力、知恵、成果の誇りあいがぶつかる教会で、反対者に対抗すべく、パウロはあえて自らの労苦を誇る。誰よりも多い労苦―キリストのための傷痕―こそがキリストのしもべとしての信任状だと言う。キリストも自らの傷痕を示し、触れとみよと言う。キリストについて行こうとする者は、必ず傷痕を見、その意味を考える。その時言われる。「わたしの傷の示すわたしの愛に生きてごらん」
国と国との外交関係を持つ時に大使を派遣する。
だれでもいいというのではなく、この人を送りますという承認を得る。
このことをアグレマンといいますが、信任状をもらうことになる。

ーーーーーーーーー詳細ーーーーーーーーーー

今日の聖書の個所に出てくるコリントの教会では、信任の問題があった。
パウロを信頼しえない。パウロの宣教としての資格を認められない。
教会の働きの信任の問題。
パウロは反対する彼らにどう言って信任状を出したのか。
互いに誇りをもっているが、誇りがぶつかり合う。
人間は自分の力ややったことの成果を誇る。
キリストの救いを受けた私たちは何を誇るかというと主を誇る。
誇ることは、他人を見下すことになる。霊的に誇りは危険。
私は主を誇る。主が救いに心から感謝し喜び誇る。
それゆえ、平安を与えられ、神に仕えたいと願う。
今、パウロは、私は誇っていますという。
教会を荒らすにせ者たちが、成果を誇って挑戦してきたので、
わたしもあえて愚かになって誇ると言っている。
パウロは今まで寛容で穏やかであった。もしパウロが高飛車であったら彼らは、パウロを非難しなかっただろう。
人間的には、弱く見える謙遜を捨てて、自慢話をする。反対する人たちはどのように自慢するか。
旧約聖書的な伝統に固執するユダヤ人は何を自慢するか。俺たちはユダヤ民族。
コリントはギリシャ人などの外国人が多い中で、我々は、神の民、ユダヤ民族と誇る。
パウロはユダヤ人なのでユダヤ人を誇ってもしょうがない。
俺たちは血統のユダヤ人、パウロはユダヤの地に住んでいる純粋なユダヤ人ではなく離散の民、外国の地に住んでいたユダヤ人、異教文化の影響を受けたユダヤ人で自分たちとは違う。
私たちは生粋のユダヤ人、アブラハムの子孫である。
私たちはキリストのしもべ。パウロも私もキリストのしもべといった証拠というべきものがある。
それがあなたがたにはない。信任状というものがある。
信任状とは? キリストのしもべとしての信任状 → キリストのしもべとしての労苦。これが信任状。
彼は今までの労苦を誇る。自分の労苦をほこってもいいのか?
自分は労苦したが、あなたたちは何を労苦したか?キリストのしもべは自らを誇らない。自分の労苦を誇る。
これで反抗する人たちに対抗する慎みを捨てて誇る。
キリストのしもべとしての労苦は彼らよりも多い。偽物の攻撃を封じるのに有効であった。
今日の聖書のところには、パウロが受けた労苦の信任状が書いてある。(Ⅱコリント11:23~)
私は狂気したように言いますが・・・・。
一つ一つの言葉の中にある内容はパウロの経験したことである。
内容が濃い。この言葉の中に何があるのだろうか。これらのリストは彼の全生涯のリストではない。コリントに手紙を書いいるパウロは、これから殉教するまで8年かかっている。これから第3回伝道旅行がはじまり、その後ローマに行く。
私たちはパウロの労苦の1/4しか知らされていない。39のむち打ち(ユダヤの律法ではこれを超えてはならない)これを超えると外傷性ショック死になってしまう。
労苦はキリストのしもべの信任状。彼の体にきざまれたもの、傷痕、傷痕こそ、キリストの僕の信任状である。
天路歴程という本がある。霊的な本である。天に至るまでのクリスチャンの歩みについて書いてある。
信仰者がこの世での戦いを行って、キリストのもとに行くまでの話。
そこには、いろいろな人が出てくる。忠実な人、高慢な人、うぬぼれ師、自分勝手な人、おしゃべり、絶望な人、インテリ。その中の一人で、真理の勇者、かれはこんなことを言っている。今父のみもとに行こうとしている。これまで非常に苦労したが、この労苦をくやんでいない。それはほかの巡礼をする人たちのために与えよう。
私はクリスチャンとして生きていく時に、傷痕だけは、消せないで持っていく。
傷痕を主なる神が見てくれて受け入れてくれる。傷痕を自慢する誇ることだけが、キリストへの信頼と愛が刻み込まれたしるし、あかしなのだ。それをキリストのもとに持っていく。
現代、傷痕はあかしになる。お相撲さんの死亡事故で体中にあった傷痕を両親が見つけて、よく調べてくれということになった。
私たち信仰者においても傷痕は大事。イエス様は私たちを救ってくださったことを傷痕でしめしてくださった。あと3週間でイースターになります。イースターでよみがえったイエス様を一緒にいなかったトマスはイエス様の脇腹の傷を見て触らなければ信じないといった。イエス様は一週間後トマスの前にあらわれて傷跡を触ってみなさいと言った。トマスは傷を触るどころかその場で立ち崩れてしまった。
私たちは、53回の礼拝では話を聞くという形で礼拝をしている。説教は講演ではない。説教を聞いたからと言って礼拝そているのではない。
神様のことばを聞く。神様の語りかけを心熱く聞く。そして、応える。
今日のメッセージからいうと、トマスのようにキリストの傷痕に触れるかどうか、これが礼拝。
イエス様から、わたしのわきばらの傷痕に手をふれて応えなさいということ。ふれることはできない。触れることはできないが見なさいということ。キリストについてきなさいということは、キリストの背中を見なさい。その傷痕は、ケロイド状になっているのかどうかだけでなく、必ずその傷痕の意味を考えなければならない。私の傷が示す愛に生かされてみなさい。そこにしか、生きる場所はない。パウロにはイエス様と同じように傷痕がある。私もこの傷痕が私たちに示す愛、その愛に生かされてみる。
それが地上における祝福ということではないでしょうか。

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