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2006年4月

2006年4月18日 (火)

「だれでも

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコの福音書 8章34節)

自分の十字架とは日本語では、「運命的に負う苦しみ」といった意味で使われるが、十字架の原型を持つイエスは言われる。「わたしの傷の示す愛に生かされて歩むなら、もはや自分の十字架を悲壮な思いで担うことなく、それは軽やかになるであろう。そこにしかあなたの生きる場所はない。だからそこに生きてごらん。」

2006年4月10日 (月)

聖書の言う「心貧しい人」

「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイの福音書5章3節)

心の貧しい人は幸いである。心の貧しい人とは人間的な人格者、寛容な人をも意味するが、大事なことは聖書のキリストなる神を信じ、それによって培われた人格を意味するということ。幸いも一般的な幸いを含むが根本は地と天の御国を支配なさるキリストを信じることの幸いである。

神との仕切りは自分

「あなたがたの咎が、あなたがた、あなたがたの神との仕切りと(なったのだ)」(イザヤ書59章2節)

神の触の時代。神は確かにおられ、手を伸べておられるが、人には多くの仕切り(罪、汚れ、自分勝手…)があって光が届かない。自分の仕切りを認め御顔が隠されても、神の誠実に絶大の信頼を向けよう。神は先の見えない不安と御顔を向ける平安をセットにして、真の平安を導いてくださる。

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