主の前に愚かなる者
「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。」(箴言9章17節)
箴言にある知恵が「神の知恵」であるように、愚かさとは「究極の愚かさ」を意味する。遊女に見られる愚かさは、神のかたちとして男と女に造られたことに反することであり、人を滅びに至らせるゆえ、神が憎まれる愚かさである。ひそかな、こっそりの罪の喜びは主の前に愚かなこと。
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「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。」(箴言9章17節)
箴言にある知恵が「神の知恵」であるように、愚かさとは「究極の愚かさ」を意味する。遊女に見られる愚かさは、神のかたちとして男と女に造られたことに反することであり、人を滅びに至らせるゆえ、神が憎まれる愚かさである。ひそかな、こっそりの罪の喜びは主の前に愚かなこと。
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「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ」(箴言6章6節)
なまけ者よ、知恵を得よ。みじめな貧乏人にならないために勤勉であれ、とは大事な処世訓。だがもっと大切なことは、人がより良く神の前で生きるために、神のかたちとして造られ、人がその知恵を用いることにおいて勤勉であれということ。「濡れ手に粟」ではなく、労苦の実を楽しむことを神は与えられた。
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「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。」(箴言24章17節)
「汝の敵を愛せよ」とはあまりにも重過ぎるが、悪をなす者に対してねたみを起こさないよう、自らを制しよう。いや少なくとも、最低、人がつまずき倒れる時、ホッとするようなことのない様にありたい。キリストの御思いを知るための求道の旅・求道の姿勢こそ一番美しい、品のあること。
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「私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30章9節)
信仰者の主への最後の切なる願いは、①自分が不信実と偽りから遠ざけられること、②食べ飽きるほどであれ、逆に貧しくあっても、主を否み、主の御名を汚すことがないこと。自らの誤りとしっかり向き合い、晩節を汚すことのないように祈ろう。
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「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5章16節)
キリストを人間的模範とか、命令する者としてとらえることは、人間的標準で信仰を考えること。キリストの愛に迫られ、キリストと共に十字架につけられたという内的生まれ変わり大切なこと。罪をしっかりとらえさせられ、しっかり赦され、自由にされて愛に生きる者とされよう。
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