いのちを望む
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7章13,14節)
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7章13,14節)
「あなたがたは、なぜ生きておられる方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24章5・6節)
イエスのよみがえりとは、人生やいのちを教えるための架空の宗教的な話ではなく、人の思考と力を超えた神によるみわざ。そのみわざとは、イエスの十字架の死を完成させ、罪ゆえに滅びゆく人間を真の神と永遠に結びつけること。創造主なる神との愛と信頼による結びつきは、人の行き着くべき、死を越えた真のゴールへと導く。
「もし私が洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13章8節)
ご自分の時が来たことを知られたイエスは、「もし洗わなければ、世に来たことが無駄になる。だからあなたの足を洗わせてください。」と、まるで懇願するかのように、世にいる自分のものを愛された。永遠のいのちの祝福を受けて欲しい!どうしても!
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1章15節)
欲とは、神と神の愛・清さから離れ、無視することに通じる罪の動き。罪が熟すると、死―人間性の喪失と永遠の死―をもたらす。この死から逃れる道はただひとつ―キリストの苦しみの愛を無視する自らの罪を悔い改め・キリストの赦しの中に入れられる道。死を生むのか、いのちの冠を受けるのか。