永遠とつながって生きよう
「神はまた、人の心に永遠(への思い)を与えられた。」(伝道者の書3章11節)
人は目に見えるものではなく、見えないもの、永遠なるもの、神を信じるものとして造られた。その神は人間の宗教のつくりあげた人の思いでどうにでもなる神ではない。限定された生を生きる人間は、エデンの園ではないこの世で、移りゆく人の営みを永遠なる神への信仰による視点で洞察することが必要。みことばに親しみ、祈りによって永遠なる方との親しい交わりを生きよう。
「神はまた、人の心に永遠(への思い)を与えられた。」(伝道者の書3章11節)
人は目に見えるものではなく、見えないもの、永遠なるもの、神を信じるものとして造られた。その神は人間の宗教のつくりあげた人の思いでどうにでもなる神ではない。限定された生を生きる人間は、エデンの園ではないこの世で、移りゆく人の営みを永遠なる神への信仰による視点で洞察することが必要。みことばに親しみ、祈りによって永遠なる方との親しい交わりを生きよう。
「神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」(伝道者の書3章14節)
~に時がある神は配慮して多様な人生を与えておられる。その中で人が神への不信や疑いを持つことがあったとしても、「神のなさることすべて時にかなって美しい。」と告白させ得る。それは神が、その時がどのようになるか、さらに神にある最後の結末がどうなるか、すべて掌握しておられ、最善をなそうとされる神だからである。
「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない」(レビ記19章9節)
収穫後の落ち穂を拾って生活するみじめさなど誰も望まない。むしろ落ち穂を落としてあげる側に立ちたいと思う。しかし豊かになったからといって、あるいは拾うみじめさを味わった者が哀れみ深くなるとは限らない。人間はどうあっても罪人なのである。拾う者、落とす者、どちらであっても、落ち穂拾いの畑にあらわされた神のあわれみの原理に生き続けよう。
「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)
試練・試験・試み・・・すべて神なる御子イエスにある信仰によること。苦しみによる試練だけでなく、平穏の時にも、信仰者は日常的に試みられている。① 聖書をどう理解するかについて、②信仰者としてどう行動し、人に対応するかについて。何かを得ようとすれば、何かを捨てなければならない。あなたはどうするか、試みられている。4000年前のアブラハムの人間性と今日の人間性は、どちらがまともか、考えよ、と試みられている。
「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)
イサクについてのアブラハムへの試練は、アブラハムの信仰を神が確認するためというより、アブラハムが自分の信仰を確認するため。また、この試練を通して、アブラハムは、人が罪のためにいけにえとはなり得ず、いけにえは、神自らが代償として備えられたものでなければならないことを確信した。祭壇―礼拝の場―は、人も神も苦しまれる場、そこは神が居られるところ。
「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22章2節)
アブラハムがイサクをささげる試練は究極の試練。「究極」の意味は、これがすべて神によること。アブラハムだけへの1回限りのもの。しかも人間をいけにえとする―あり得ない不合理な試練であること。この不可解・不合理な試練は、同じく人にとって不合理な神の御子の十字架を予告している。究極の試練は究極の救いを確信させる。