苦しみに会ったことはしあわせ
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119篇71節)
苦しみに会ったことはしあわせ―ほかの誰でもない「私」にとって!それは偽善でなく、やせ我慢でもない。詩篇の信仰者はすべての苦しみ―それらがキリストにつながり、神ご自身と神のおきてを学ぶことになるゆえ、最高の幸せと受けとめた。苦しみを通して、その都度、神から学びほぐされ、神が導こうとされる自分にあった幸せをとらえていく者であろう。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119篇71節)
苦しみに会ったことはしあわせ―ほかの誰でもない「私」にとって!それは偽善でなく、やせ我慢でもない。詩篇の信仰者はすべての苦しみ―それらがキリストにつながり、神ご自身と神のおきてを学ぶことになるゆえ、最高の幸せと受けとめた。苦しみを通して、その都度、神から学びほぐされ、神が導こうとされる自分にあった幸せをとらえていく者であろう。
「私は地では旅人です。」(詩篇119篇19節)
昔から人生は旅にたとえられる。聖書の旅とは、神の造られた地で神の世話によって永遠の本拠を目指し栄光をあらわすための限定された旅。神にふさわしくない余計なものをそぎ落としすっきりしたいもの。神に喜ばれない罪人の欲望 ―技術の進展と共に増大し、神の領域を侵すような欲望― にこれ以上先は望まないとの限りをつけ、神のおきてを喜ぶ旅人として生きることに平安を見出そう。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書14章11節)
上席か末席か。恥をかいたり面目を施すのはこの世の処世術。キリストは処世術ではなく、十字架の上に立って、神の前の真の謙遜―自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる―即ち、自分で末席を選べ、と言われる。上席を選ぶとは、神のなさるはずの評価を自分で決めること。末席を選ぶとは、神の評価にゆだねること。傲慢でもなく、卑屈でもないキリストにある謙遜に生きよう。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼するものは守られる。」(箴言29章25節)
「人を恐れるとわなにかかる。」今は、恐れなくても、信頼してもわなにかかる時代。人の顔を恐れると罪の誘惑というわなにかかり、不真実になり、罪の悔い改めができなくなる。「しかし主に信頼するものは守られる。」守られるとは高い所に置かれて危険から守られること。巷のあれこれに左右されず、見えないものに目を注ぐという次元の違うところで生きている故に安らかなのである。