良い地に蒔かれよう
「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4章19節)
主の前での人の様々な姿を現す4種の種は、恐ろしさと祝福の2種に分けられる。石地のように神のみことばをはねつけ、ついに枯れてしまう者ではなく、良い地に蒔かれた者でありたい。しかし、良い地とは、一人ひとりが造り出す地―キリストの愛と苦しみを知る者たちの手造りによる耕された地。枯れるか、生きるかの違いのわかる者となろう。
「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4章19節)
主の前での人の様々な姿を現す4種の種は、恐ろしさと祝福の2種に分けられる。石地のように神のみことばをはねつけ、ついに枯れてしまう者ではなく、良い地に蒔かれた者でありたい。しかし、良い地とは、一人ひとりが造り出す地―キリストの愛と苦しみを知る者たちの手造りによる耕された地。枯れるか、生きるかの違いのわかる者となろう。
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2章17節)
イエスの言う正しい人とは―自分は神を信じている立派な人間だと思い、他を汚れた者とけなし、自分と区別することによって、自分の正しさに酔い、満足し、神に感謝している人。
罪人とは―いわゆる悪人であるだけでなく、自分の罪を知り、悲しみ、救いの必要を知る人。正しい人には、イエスの十字架の苦しみは意味を持たない。イエスは救いを必要とする罪人のみを招く。
「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」(マルコ3章21節)
神と人のために自分を削り与えることなど、この世では引き合わない生き方。しかし主イエスに接した者は、少しでも上の安楽な生き方より、自分を提供する生き方を喜びとし、充実したものとする。今日のゆがめられた愛(溺愛...etc)に翻弄されている者は、「気が狂った」と言われるほどの主の誠実に目を向ける。与えつくしても破れない主のもとに立ち返ろう。
「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」(マルコ3章4節)
まともにぶつかり答えるか、黙って無視するか。他人にも自分にもあいまいにしている私について主は「救うのか、殺すのか」と厳しく詰問される。しかし、私のために苦しまれた主は、まともに答えられない罪人たる私の全存在を受け入れてくださる。主からの詰問にハッとさせられ、次に、十字架に引き戻されてホッとさせられて変えられていく者となろう。