2008年1月13日 主日礼拝「義と認められる平安」
<聖書:ローマ4:1-8>
1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。
しかし、神の御前では、そうではありません。
3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。
それが彼の義とみなされた」とあります。
4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、
その信仰が義とみなされるのです。
6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、
こう言っています。
7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
8 主が罪を認めない人は幸いである。」
<メッセージポイント>
良いことをしなさい。そうしたら報いがあるとは、普通の宗教において云われること。しかし、聖書は、何が良いことであるかを知り、決めるのは神であり、人の良い行いを基準にするのではなく、神に義と認められることこそが重要であるという。良きものがない者をあえて義と認めてくださる主を信じる者のみが何ものにもじゃまされない平安を得る。