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2008年1月

2008年1月27日 (日)

2008年1月27日 主日礼拝「良いわざにあふれよう」

<聖書:Ⅱコリント9:6-15>
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。
その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。
14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
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<メッセージポイ日本人は死やお金のことは、不吉、汚れ、いやしいこととして避けようとする。しかし、主はこれらを避けないで真正面からぶつかる。献金については、「祝福をもって蒔くものは祝福をもって刈り取る」と言って、徹底して神の祝福と断言する。世に言う「人生は総合力や」は、信仰者にとって、たとえ弱く、ふがいなくあったとしても、髪の祝福のみを目指す確信こそが人生の総合力。

2008年1月20日 (日)

2008年1月20日 主日礼拝「キリストの貧しさによって富む」

<聖書:Ⅱコリント8:9>
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

<メッセージポイント>
この世の豊かさは心を貧相にする。人を自分にかしずかせリッチな気分にさせるサービスをお金で買う豊かさは、人を傲慢にさせ、卑屈にさせる。キリストの豊かさは、いつでも裸になり得る豊かさ、与えても破れない豊かさ。このキリストが私のために貧しくなられたことが、私のものになるとき、真に富む者となる。貧しさにある者には、あふれる喜びの可能性がある。キリストに祝福された貧しさに生きよう。


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2008年1月13日 (日)

2008年1月13日 主日礼拝「義と認められる平安」

<聖書:ローマ4:1-8>
1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。
 しかし、神の御前では、そうではありません。
3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。
 それが彼の義とみなされた」とあります。
4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、
 その信仰が義とみなされるのです。
6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、
 こう言っています。
7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
8 主が罪を認めない人は幸いである。」

<メッセージポイント>
良いことをしなさい。そうしたら報いがあるとは、普通の宗教において云われること。しかし、聖書は、何が良いことであるかを知り、決めるのは神であり、人の良い行いを基準にするのではなく、神に義と認められることこそが重要であるという。良きものがない者をあえて義と認めてくださる主を信じる者のみが何ものにもじゃまされない平安を得る。

2008年1月 6日 (日)

2008年月6日主日礼拝 「あなたとともにいる旅人です」

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<聖書:詩篇 39篇12-13>

12 私の祈りを聞いてください。【主】よ。
 私の叫びを耳に入れてください。
 私の涙に、黙っていないでください。
 私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。
13 私を見つめないでください。
 私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。

<メッセージポイント>
地上から天を見上げ、神を信じていた人間が、半世紀前、天に飛び出し、天(上・神)から人間を見るという(神の見方)経験をした(宇宙体験)。神からの見方に立つ聖書は、地上のはかない生涯を永遠(神)を視野に入れて生きることを教える。ドロドロした生活を神による1度きりのことだと思って、神に与えられた魂と向き合い、最善を尽くして行こう。

2008年1月 1日 (火)

2008年元旦礼拝  「私の時は、御手の中にあります」

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<聖書:詩篇 31篇9-15>

9 私をあわれんでください。【主】よ。
 私には苦しみがあるのです。
 私の目はいらだちで衰えてしまいました。
 私のたましいも、また私のからだも。
10 まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。
 私の年もまた、嘆きで。
 私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。
11 私は、敵対するすべての者から、非難されました。
 わけても、私の隣人から。
 私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
12 私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。
13 私は多くの者のそしりを聞きました。
 「四方八方みな恐怖だ」と。
 彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。
14 しかし、【主】よ。私は、あなたに信頼しています。
 私は告白します。
 「あなたこそ私の神です。」
15 私の時は、御手の中にあります。
 私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。

<メッセージ>
今日のみことば、
「私の時は、御手の中にあります。」
私の生涯の出来事、経験は盲目的な偶然によってではなく、神の計画によってである。
過去、現在、未来の長い一直線の中に人は生きているが、過去と未来の境目に現在がある。
現在をどう生きているかで、過去も未来も変わってきてしまう。私の時は神の御手の内にある。
新年という区切りも神の御手のうちにある。
新年は何のためにあるか。
新年は死んだ人を思うためにある。と唄ったた人がいる。
なぜ自分よりも優しい人が先に死ぬのか。を考える。
悲しいことは、気付かないか、考えないで過ごす。
日本人は喪中として、あえて、人生でもっとも大切なことを避けようとするのは神の目からは罪ではないか。
新年は死んだ人を偲ぶためにある。
縁起が悪い悲しい出来事も神の御手の内にある。
この事を覚えつつ新年をスタートしたい。

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