« 2008年3月9日 主日礼拝「イエスはガリラヤ全土を巡って」 | トップページ | 2008年3月23日 主日礼拝「主にあって死ぬ死者は幸い」 »

2008年3月16日 (日)

2008年3月16日 主日礼拝「下がれサタン」

<聖書:マルコ8章31-33>
8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

Image_038


<メッセージポイント>
『下がれ。サタン』とは、神との断絶宣言に等しい神の怒りと悲しみの叫び。ペテロがサタン呼ばわりされたのは、神の愛の苦しみーーー人に真のいのちを与えるための苦しみーーーーを単なる人間の不幸や苦しみのレベルまで落とし、神のみわざを否定したため、自分の罪のすざまじさと十字架に心閉じる者ではなく、開いて、キリストを迎え、キリストの十字架を負うものとされよう。

<詳細>
今週は受難週であります。
年に一度、全世界のキリスト教会は喪に服するときです。何の喪に服すかというと、イエスキリストが十字架にかけれたことで喪に服するのであります。
キリストは私たち人間に自分の十字架を背負って私に着いてきなさいと言いました。
十字架を背負うとは・・・。今日、日本では、自分の十字架はキリストを離れて一人ひとりの人生の苦しみという意味で使われることが多い。人は生まれた時から運命的に背負った苦しみがある、そういう意味で十字架を背負うというのが一般的である。しかし、本当は、2000年前に、負われたキリストの十字架を負うという。
キリストについていきたいと思う人にのみ言える。そうでない人は自分を捨て十字架を背負うことはできない。
ペテロはどう思ったか。人間の苦しみのレベルで考えようとした。イエスはペテロに対しておまえはサタンだ。下がれと言われた。
もう一つ、イエスがサタンに対して言われたのは悪魔の誘惑に会われた時のことである。人間の通俗的な判断を否定された。神なら高いところから飛び降りてみろ。じぶんが食いはぐれることなく安全に羽振り良く過ごせることを誘惑した。サタンの誘惑にのらないようにサタンよ下がれといった。
今日の「サタンよ、下がれ」は、どういう意味かというと、これから苦難んお道を歩むイエスを妨げようとしたペテロに対して、下がれと言われた。イエスが神の国のことを伝え多くの人を癒した。ガリラヤの春といわれる素晴らしい時。この春が終わって、これから自分の苦しみについて語られるようになるところがある。今日のところは苦しみの予告を聞いた時。
ペテロがイエスの十字架を聞いた時、「主よ、とんでもありません」といった。そこでイエスは振り向いてペテロに対して、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」といったのである。これは罪の原型である。まず、神のことを信じ、神のことを考える。これが第一である。神のことを思わず、人のことを思う。人のこと、イエスのこと、自分たちのこと。イエス様のような立派な方が宗教家たちに捕らえられてはならないと思った。イエス様という先生がイスラエルで偉くなくてはならないと考えていたのに、十字架にかかられては敗北ではないか。すべてを捨てて、ついている私たちはどうなるのか。⇒人間的なレベルのことしか考えていない。あなたが考えているのは、人のことだけ。これが罪の原型。
神様のことを思うことはこの時、何を意味しているか。御子イエスを十字架につける神の愛の苦しみを思うということである。
神の愛の苦しみとは・・・私たちに本当のいのちを与えるために神が苦しまれた。これを否定するのは神様の愛を否定することだから、イエスは下がれとペテロに厳しくいった。
イエスキリストはエルサレムに上って行き、最高議会によって十字架に変えられる必要があった。何のために?私たちの罪のため。イエスは罪びととされ罰を受けた。私たち人間のために身代わりとなって、代償となってくれた。
贖いを済ませて、神様を私の関係を怒りや敵対から、許しと和解に変えてくれた。これ尾を救い主イエスキリストという。
ある意味弟子たちに、バサッと言われた。この心理は当時をよく知っているユダヤ人でも理解できないからだ。一緒にいたペテロでさえ、理解できなかった。
すでに、イエス様のことを弟子には生ける神の子キリストですと告白したペテロですたわからなかったのである。よく理解できなかったゆえに、善意からいったのだが、ところがイエスは即座に叩きつけるように言った。「下がれ、サタン」。
先生の弟子に言うような言い方ではなかったと思う。ペテロの善意から出てきた言葉に対してこの手きびしさはどうか。
今まで、これだけ尊敬し、つながってきたことが全て、否定されるように見えた。神様との断絶にもなる。なぜ、かくもそのように厳しいのか。
御子なる神がこれから起ころうとしていることの絶大なる意味。イエスがペテロを諌めたのは神様がなさろうとしたことを配慮したことである。人類の始めから神様が考えたこと。ペテロのため祈ろうとしているイエス様の邪魔をしたのである。
あの贖いの尊さを全く感じない鈍さをペテロが示していたからである。これだけ教えたのに、まだ自分たちには贖いが必要ないといわれるのか?と激しく叱責された。
私たちは今受難週に入っている。イエスキリストは神の子であったが、この十字架の道こそは、キリスト教が何であるかの道筋をつけることになる。これが根幹である。このキリストを否定してしまったのではだめである。
このイエスキリストに従った人が絶えす伝えられ、実行した人がいたので、2000年の後の今も、キリストが伝えられている。

津和野の乙女峠でキリシタンの改宗の説得がなされた。棄教を拒むと拷問が加えられる。
32目の殉教者が出た。彼らが過酷な受難で耐えた秘密は何か。イエスキリストの十字架そのものである。
御子イエスキリストが私たちの罪のために十字架につけられて亡くなった。これを思うと拷問も当然と考えた。
津和野、長崎、 下がれサタン神の断絶、滅びを知っていた。神と断絶し、滅びていくくらいなら、死ぬことは何でもない。世の民のために迫害されている人は幸いなのである。
サタン、殉教は時代遅れ、ばかげたこととしか現代人には思えないかもしれないが、イエスキリストが十字架にかかって死なれたということは変わりない。
この愛の真実は多くの人には、隠されている。あまりにもむごいから人の罪もむごいのである。むごいので見たくない。だから神の救いは隠されたものになってしまう。聖書を読んで、少しでも心を開かれた人には広く、閉じた人には永遠に閉じられている。
断腸の叫びをペテロに対している方。下がれサタン。私たち今日も教会に来ている。受難の週に生きる。
あの十字架に心閉じるものと開くものとがいる。開く者のところに、イエスキリストはお迎えに来る。
私たちは、いつも、開く者になっていたい。