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2008年3月 2日 (日)

2008年3月2日 主日礼拝「傷痕の信任状」

<聖書:Ⅱコリント11:21-27>
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、─私は愚かになって言いますが─私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

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<メッセージポイント>
力、知恵、成果の誇りあいがぶつかる教会で、反対者に対抗すべく、パウロはあえて自らの労苦を誇る。誰よりも多い労苦―キリストのための傷痕―こそがキリストのしもべとしての信任状だと言う。キリストも自らの傷痕を示し、触れとみよと言う。キリストについて行こうとする者は、必ず傷痕を見、その意味を考える。その時言われる。「わたしの傷の示すわたしの愛に生きてごらん」
国と国との外交関係を持つ時に大使を派遣する。
だれでもいいというのではなく、この人を送りますという承認を得る。
このことをアグレマンといいますが、信任状をもらうことになる。

ーーーーーーーーー詳細ーーーーーーーーーー

今日の聖書の個所に出てくるコリントの教会では、信任の問題があった。
パウロを信頼しえない。パウロの宣教としての資格を認められない。
教会の働きの信任の問題。
パウロは反対する彼らにどう言って信任状を出したのか。
互いに誇りをもっているが、誇りがぶつかり合う。
人間は自分の力ややったことの成果を誇る。
キリストの救いを受けた私たちは何を誇るかというと主を誇る。
誇ることは、他人を見下すことになる。霊的に誇りは危険。
私は主を誇る。主が救いに心から感謝し喜び誇る。
それゆえ、平安を与えられ、神に仕えたいと願う。
今、パウロは、私は誇っていますという。
教会を荒らすにせ者たちが、成果を誇って挑戦してきたので、
わたしもあえて愚かになって誇ると言っている。
パウロは今まで寛容で穏やかであった。もしパウロが高飛車であったら彼らは、パウロを非難しなかっただろう。
人間的には、弱く見える謙遜を捨てて、自慢話をする。反対する人たちはどのように自慢するか。
旧約聖書的な伝統に固執するユダヤ人は何を自慢するか。俺たちはユダヤ民族。
コリントはギリシャ人などの外国人が多い中で、我々は、神の民、ユダヤ民族と誇る。
パウロはユダヤ人なのでユダヤ人を誇ってもしょうがない。
俺たちは血統のユダヤ人、パウロはユダヤの地に住んでいる純粋なユダヤ人ではなく離散の民、外国の地に住んでいたユダヤ人、異教文化の影響を受けたユダヤ人で自分たちとは違う。
私たちは生粋のユダヤ人、アブラハムの子孫である。
私たちはキリストのしもべ。パウロも私もキリストのしもべといった証拠というべきものがある。
それがあなたがたにはない。信任状というものがある。
信任状とは? キリストのしもべとしての信任状 → キリストのしもべとしての労苦。これが信任状。
彼は今までの労苦を誇る。自分の労苦をほこってもいいのか?
自分は労苦したが、あなたたちは何を労苦したか?キリストのしもべは自らを誇らない。自分の労苦を誇る。
これで反抗する人たちに対抗する慎みを捨てて誇る。
キリストのしもべとしての労苦は彼らよりも多い。偽物の攻撃を封じるのに有効であった。
今日の聖書のところには、パウロが受けた労苦の信任状が書いてある。(Ⅱコリント11:23~)
私は狂気したように言いますが・・・・。
一つ一つの言葉の中にある内容はパウロの経験したことである。
内容が濃い。この言葉の中に何があるのだろうか。これらのリストは彼の全生涯のリストではない。コリントに手紙を書いいるパウロは、これから殉教するまで8年かかっている。これから第3回伝道旅行がはじまり、その後ローマに行く。
私たちはパウロの労苦の1/4しか知らされていない。39のむち打ち(ユダヤの律法ではこれを超えてはならない)これを超えると外傷性ショック死になってしまう。
労苦はキリストのしもべの信任状。彼の体にきざまれたもの、傷痕、傷痕こそ、キリストの僕の信任状である。
天路歴程という本がある。霊的な本である。天に至るまでのクリスチャンの歩みについて書いてある。
信仰者がこの世での戦いを行って、キリストのもとに行くまでの話。
そこには、いろいろな人が出てくる。忠実な人、高慢な人、うぬぼれ師、自分勝手な人、おしゃべり、絶望な人、インテリ。その中の一人で、真理の勇者、かれはこんなことを言っている。今父のみもとに行こうとしている。これまで非常に苦労したが、この労苦をくやんでいない。それはほかの巡礼をする人たちのために与えよう。
私はクリスチャンとして生きていく時に、傷痕だけは、消せないで持っていく。
傷痕を主なる神が見てくれて受け入れてくれる。傷痕を自慢する誇ることだけが、キリストへの信頼と愛が刻み込まれたしるし、あかしなのだ。それをキリストのもとに持っていく。
現代、傷痕はあかしになる。お相撲さんの死亡事故で体中にあった傷痕を両親が見つけて、よく調べてくれということになった。
私たち信仰者においても傷痕は大事。イエス様は私たちを救ってくださったことを傷痕でしめしてくださった。あと3週間でイースターになります。イースターでよみがえったイエス様を一緒にいなかったトマスはイエス様の脇腹の傷を見て触らなければ信じないといった。イエス様は一週間後トマスの前にあらわれて傷跡を触ってみなさいと言った。トマスは傷を触るどころかその場で立ち崩れてしまった。
私たちは、53回の礼拝では話を聞くという形で礼拝をしている。説教は講演ではない。説教を聞いたからと言って礼拝そているのではない。
神様のことばを聞く。神様の語りかけを心熱く聞く。そして、応える。
今日のメッセージからいうと、トマスのようにキリストの傷痕に触れるかどうか、これが礼拝。
イエス様から、わたしのわきばらの傷痕に手をふれて応えなさいということ。ふれることはできない。触れることはできないが見なさいということ。キリストについてきなさいということは、キリストの背中を見なさい。その傷痕は、ケロイド状になっているのかどうかだけでなく、必ずその傷痕の意味を考えなければならない。私の傷が示す愛に生かされてみなさい。そこにしか、生きる場所はない。パウロにはイエス様と同じように傷痕がある。私もこの傷痕が私たちに示す愛、その愛に生かされてみる。
それが地上における祝福ということではないでしょうか。