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2008年3月 9日 (日)

2008年3月9日 主日礼拝「イエスはガリラヤ全土を巡って」

<聖書:マタイ4章23-25>
4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。


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<斎藤牧師 メッセージポイント>
42節「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
イエスさまは、ガリラヤ全土を巡ったが、歓迎されたところもあれば、そうでなかったところもあるだろう。また、イエス様はみんなを集めることができたにもかかわらず、あえて、自ら足を運んで各地のひとりひとりのお会いになった。全土を巡るということは大変なことであったに違いない。それは一人ひとりのところにおとずれて、福音をつたえるためであった。イエス様の救い主としての使命がそこに示されている。
イエス様は、まず、人々に教えた。
人は自分が罪人であること、それに囚われていて、そこから逃げ出せない現実を受け止めなければならない。人は神と和解して救い出される。
イエス様がガリラヤ地方に何をしに来たか。それは、まず、イスラエルの民たちを教えることであった。神の福音の約束をであった。第一にイスラエルに向けられたことは、イエス様がこられてのちは、その制限がなくなった。わざわざガリラヤにいる異邦人にもみことばを伝えることを考えてのことであった。
福音とは良い知らせのこと(キリストについての)である。
「宣べ伝える」と「教える」の違いを強調することは必要ない。共通する部分がかなりあるからだ。
「会堂で教える」とは、すでに進行を持っているユダヤ人がさらに、正しい理解を持つためである。
「福音を宣べ伝える」はまだ、キリストを知らされていない人々、異邦人へ伝えたのである。
ユダヤ人は唯一の神を信じてきたのでイエス様を神様と理解するには、教えが必要であった。
また、ガリラヤ地方の人々にもっと福音を伝えるべき人が多くいる。キリストによってもたらされる神の世。主の扱い、宣教と教えの段階がここに示されている。
3番目として民のあらゆる病気の癒しがなされた。イエスのいやしは、完全で、おことば一つでなされる。神の証拠としてなされたのである。力ある神のご支配、何でも解決できることのあかし。
私たちが主に向かうなら神は必ず、私たちにかかわってくださる。イエス様は神の国が地和いてきているのを実証された。
私たちは必要以上に病を自分の罪の結果と考え、裁かれることが多かった。しかし、そこにも神の許しの恵みはとどいている。
今の病の苦痛が、自らの罪からこようが悪魔のしわざであろうが、神の支配のもとでは、簡単に打ち砕かれる。神の支配のすべてを私たちは理解できないが、そこに、神の主権と節理が働いている。
キリストは教えを語るだけでなく、癒しを行いながら、ガリラヤ全土を歩かれたのは興味深い。
私は、イエスに向かわせる。イエスが去った後も、みことばが私たちを助けて下さる。
主のみわざは常にキリストと神の栄光を表すものである。
主の語るみことばが人々の心にとどまらなければならない。
マタイ8:8
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。

詩篇107篇20,21節
107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
107:21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。
イエス様による神の国のご支配の表れがある。いやされたものが単に病気だけではない。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

イエス様はガリラヤ地方で宣教をはじめたばかりだが、うわさになり、シリヤ全体に広まっていった。(ガリラヤより北)
その結果さらに、広い地域の人々が主のもとにやってくることになった。

4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

デカポリス、エルサレム地方だけに広まっているのではなく、パレスチナ全体に広まった。
イエス様の名は知れ渡り、大勢の群衆がイエスにつき従った。
病によるいたみにとどまらず、人間の苦悩が含まれている。
あらゆる種類の病人が連れてこられた。

私たちが心にとめておかなければならないことは、主が私たちに何を望んでいるかということである。
病気であることが当然ではなく、それがいやされて、健全であることをイエス様は願っている。
神の国がイエス様とともに存在していることを目に見える形であらわしている。
癒しの奇跡 恵みと憐れみのゆえに許されていること。イエス様が生き巡って伝えていた地域を越えて、人々が集まってきた。デカポリスとは十の町々が同盟を結んでできた町。ヨルダンの向こう岸、異邦人がたくさん住んでいた。イスラエルの北方地域の人たち。
主の救いを受けたものとして大事なことは、本当の病を患っているというだけではないく、わたしたちが罪の中にあるということである。
イエス様は、わたしたちを罪の中から救ってくださった。
神様との交わりにみちびいて下さる方。イエスのいやしは結果としてガリラヤ全土から人々を集めた。人々の足を運ばせた。そして期待していなかったことを見させてくれた。
最初は、いやし、そして悔い改め。心身の癒しを通じて、心も救ってくださった。
彼らの多くはしばらく突き進んだが、顧みられることはなかった。おエスの妨害的なうわさ。人気や評判はあてにならないことを知って神に忠実に信仰深く歩むことを願っている。
人々を教え、みくにの宣教をされた神のめぐみがここにある。
その主は、今も私たちの心に働きかけて下さって導いて下さる。
私たちの心が開かれ、信仰を通してしゅくふくされるものへと変えられていく。
15節最後のつき従ったといゆことばはイエス様の弟子になることも含んでいる。
私たちの信仰はどうか。
私たちのキリストの十字架がついていなければならない。しかしまだここでは示されていなかった。
今日、私たちにはみことばによって十十カが示されている。