2008年4月13日 主日礼拝「弱いときこそ、強い」
<聖書:IIコリント12章1-5>
12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
<メッセージポイント>
信仰者は弱いときこそ強い? 奇妙? 絶対者なる方のみことばは、人間には逆説となる。これは人にはつまずきとなるが、苦難に満ちた人生を歩むものにとっては、大いなる励まし。パウロは積極的に自分の弱さ・痛みを誇り、キリストの力が宿ることを願う。「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」-この不思議に少しでも近づこう。
<詳細>
日本では昔から火事場の馬鹿力といわれる。
とっさの時には、とてつもない力が発揮されたり、痛いものも感じなくなる時がある。
今日は、「弱いときこそ強い」というテーマ。
聖書は神の啓示で書かれたもの。時には逆説的な表現を用いることがある。聖書の神がいるからlこのような表現がされる。
パウロがユダヤ教のキャリアであったら、弱いときに強いとは言わなかっただろう。もっと自分を誇っただろう。しかし、キリストのしもべとなった。キリストにある栄光は苦難であった。
自分の心が痛むことがキリストの僕としての栄光。
彼は神の啓示を受けた。誇ってもいいし、自慢してもいい。しかし神様はそのような経験を与えておきながら誇り高ぶらないように体にとげをおいた。
パウロをへりくだらせることになるが、高ぶることはないのに、とげをおいた。
肉体のとげとは何か。いろいろ学者が研究しているが、頭痛、目の弱さ、マラリヤ、てんかんなどと言われている。
パウロは人々から見た目にもいやがられる面があった。
突然発作的に襲ってくる。いつものことではない。間欠的に襲ってくる。
これさえなければ、もっと有効な働きができたというとげがあった。
パウロはこのとげを取り除いてくれるように3度も祈った。そして神様は取り去ってくれなかった。しかし、私の恵みは十分である。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
痛みの中で、功績を出せ。共にいてみわざをなされるのは、神である。
俺がやったという誇りがないように肉体のとげを与えた。
旧約聖書でも同じlことをいっている。ギデオンが戦ったときに敵にた対して12万対3万3千人を300人まで減らした。それは自分達の力で買ったということがないように。
肉体のとげ。→ 杭
キリストの十字架とはもともと杭。
パウロは最初主の意図をしらずに3度もとげを取り去って下さいと祈った。
パウロと神様との関係。
弱さにいきる。弱さこそキリストの力が完全に現わされる場だから。
私が弱いときこそキリストにあって強い。
人生を振り替えってみるとあの時はよく頑張ったな。いまなら無理だけれどということがある。
キリストの働きはキリストのささえ。弱いときに発揮される。
パウロだからこうなった。
神様は神様のみ心にかなってあなた方にふさわしいみ恵みをおあたえになる。
