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2008年4月20日 (日)

2008年4月20日 主日礼拝「マイナスから始まる人生に幸あれ」

<聖書:イザヤ6章1―8節>

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

6:3 互いに呼びかわして言っていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。

その栄光は全地に満つ。」

6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

6:5 そこで、私は言った。

「ああ。私は、もうだめだ。

私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

6:7 彼は、私の口に触れて言った。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

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<山口師メッセージポイント>

新しい出会いを本当に今求めているか。

新しい出会いや人間関係を求めていくというよりも、世の中全般がなるべく限られた人たちとの関係だけに留まっていたいという人が多いのではないか。

結婚もそうである。結婚は安らぎであって、何で、家に帰ってまで苦労しなければいけないのか。

神様との関係はどうでしょうか。

神様にも同じことを感じていないでしょうか。

私たちに都合のよい神様にしてはいないでしょうか。

神様との出会いは、聖書の中ではそんなに穏やかにかかれていない。

神様と出会い、まばゆい光に照らされて、目が見えなる位、大きく人生が変えられたという人がいる。

あなたが本当に神様と出会うことを願うならば、あなたは生まれ変わって、新しい人生を始められる。

今日の聖書の箇所では、預言者イザヤを通して神の出会いをみていきたい。

短い箇所だが全く反対のことが書いてある。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

5節では、「ああ。私は、もうだめだ。

と自信を失っていた。絶望に沈んでいた。

ここにいます。私を使わしてください。と このイザヤを変えられたのは何か。

救いによる。

何から救われたのか。

借金地獄?家事の危険?

滅びからの救いです。

もう駄目だという状態からあなたを救う。

聖書の救いは、私たちを変えて、喜びを与えてくださる。

人が救われて新しい人生を歩むには何かが必要。

それが神との出会いである。

出会いというのは、何か特別な体験をすることなのか。

イザヤはどうだったのか。

二つの理由を言っている。

1)私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

2)しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

イザヤは堕落した民より自分の方が上だと思っていた。しかし、神からみれば汚れたもの。

神は気のいいおじいさんではない。真の主権者である。

この神を見てしまったのだから死を意味する。

完全の清さをみて人は死ななければならないほどである。

もうだ目だという。マイナス的なイメージを、もっとポジティブな生き方をしなければならない。

もう駄目だと思ったこと。これこそがあなたが救われるためには必要なこと。

自分には罪があることを知ることが私たちの人生を変える第一歩。

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

主は救いの手をさしのべた。神はそのままにほってはおかれない。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

祭壇は神様に生け贄を捧げるためのところ。

贖われた=罪が覆われた。

これによりイザヤは神の前にああもう駄目だということの必要がなくなった。

これが罪からの救い。

この燃えさかる罪は、イエスキリストの十字架が救いとなって、私たちの罪をとり除いてくれた。

Iぺテロ2:23をみましょう。

このような歩みの中に入れられる。

この救いがどのように変えられていったか。

イザヤに始めて主のみ声が聞こえてきた。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

イザヤは救いによって変えられて、私をつかわしててください。といった。

神様のあわれみの救いが為されるときに変えられる。

大きなききめがある。

教会に来て優しい関係を楽しむことで終わるのではなく。

真の神とで会っていただきたい。

神は私たちに素晴らしい世界を用意してくださっている。

自己中心に気付きその罪を感じてください。

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