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2008年4月

2008年4月27日 (日)

2008年4月27日 主日礼拝「イエス様の愛による自由」

<聖書:ヨハネ4章30-19,28-30節>
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」─ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである─
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

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2008年4月20日 (日)

2008年4月20日 主日礼拝「マイナスから始まる人生に幸あれ」

<聖書:イザヤ6章1―8節>

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

6:3 互いに呼びかわして言っていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。

その栄光は全地に満つ。」

6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

6:5 そこで、私は言った。

「ああ。私は、もうだめだ。

私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

6:7 彼は、私の口に触れて言った。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

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<山口師メッセージポイント>

新しい出会いを本当に今求めているか。

新しい出会いや人間関係を求めていくというよりも、世の中全般がなるべく限られた人たちとの関係だけに留まっていたいという人が多いのではないか。

結婚もそうである。結婚は安らぎであって、何で、家に帰ってまで苦労しなければいけないのか。

神様との関係はどうでしょうか。

神様にも同じことを感じていないでしょうか。

私たちに都合のよい神様にしてはいないでしょうか。

神様との出会いは、聖書の中ではそんなに穏やかにかかれていない。

神様と出会い、まばゆい光に照らされて、目が見えなる位、大きく人生が変えられたという人がいる。

あなたが本当に神様と出会うことを願うならば、あなたは生まれ変わって、新しい人生を始められる。

今日の聖書の箇所では、預言者イザヤを通して神の出会いをみていきたい。

短い箇所だが全く反対のことが書いてある。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

5節では、「ああ。私は、もうだめだ。

と自信を失っていた。絶望に沈んでいた。

ここにいます。私を使わしてください。と このイザヤを変えられたのは何か。

救いによる。

何から救われたのか。

借金地獄?家事の危険?

滅びからの救いです。

もう駄目だという状態からあなたを救う。

聖書の救いは、私たちを変えて、喜びを与えてくださる。

人が救われて新しい人生を歩むには何かが必要。

それが神との出会いである。

出会いというのは、何か特別な体験をすることなのか。

イザヤはどうだったのか。

二つの理由を言っている。

1)私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

2)しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

イザヤは堕落した民より自分の方が上だと思っていた。しかし、神からみれば汚れたもの。

神は気のいいおじいさんではない。真の主権者である。

この神を見てしまったのだから死を意味する。

完全の清さをみて人は死ななければならないほどである。

もうだ目だという。マイナス的なイメージを、もっとポジティブな生き方をしなければならない。

もう駄目だと思ったこと。これこそがあなたが救われるためには必要なこと。

自分には罪があることを知ることが私たちの人生を変える第一歩。

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

主は救いの手をさしのべた。神はそのままにほってはおかれない。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

祭壇は神様に生け贄を捧げるためのところ。

贖われた=罪が覆われた。

これによりイザヤは神の前にああもう駄目だということの必要がなくなった。

これが罪からの救い。

この燃えさかる罪は、イエスキリストの十字架が救いとなって、私たちの罪をとり除いてくれた。

Iぺテロ2:23をみましょう。

このような歩みの中に入れられる。

この救いがどのように変えられていったか。

イザヤに始めて主のみ声が聞こえてきた。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

イザヤは救いによって変えられて、私をつかわしててください。といった。

神様のあわれみの救いが為されるときに変えられる。

大きなききめがある。

教会に来て優しい関係を楽しむことで終わるのではなく。

真の神とで会っていただきたい。

神は私たちに素晴らしい世界を用意してくださっている。

自己中心に気付きその罪を感じてください。

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2008年4月13日 (日)

2008年4月13日 主日礼拝「弱いときこそ、強い」

<聖書:IIコリント12章1-5>
12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

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<メッセージポイント>

信仰者は弱いときこそ強い? 奇妙? 絶対者なる方のみことばは、人間には逆説となる。これは人にはつまずきとなるが、苦難に満ちた人生を歩むものにとっては、大いなる励まし。パウロは積極的に自分の弱さ・痛みを誇り、キリストの力が宿ることを願う。「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」-この不思議に少しでも近づこう。

<詳細>
日本では昔から火事場の馬鹿力といわれる。
とっさの時には、とてつもない力が発揮されたり、痛いものも感じなくなる時がある。
今日は、「弱いときこそ強い」というテーマ。
聖書は神の啓示で書かれたもの。時には逆説的な表現を用いることがある。聖書の神がいるからlこのような表現がされる。
パウロがユダヤ教のキャリアであったら、弱いときに強いとは言わなかっただろう。もっと自分を誇っただろう。しかし、キリストのしもべとなった。キリストにある栄光は苦難であった。
自分の心が痛むことがキリストの僕としての栄光。
彼は神の啓示を受けた。誇ってもいいし、自慢してもいい。しかし神様はそのような経験を与えておきながら誇り高ぶらないように体にとげをおいた。
パウロをへりくだらせることになるが、高ぶることはないのに、とげをおいた。
肉体のとげとは何か。いろいろ学者が研究しているが、頭痛、目の弱さ、マラリヤ、てんかんなどと言われている。
パウロは人々から見た目にもいやがられる面があった。
突然発作的に襲ってくる。いつものことではない。間欠的に襲ってくる。
これさえなければ、もっと有効な働きができたというとげがあった。
パウロはこのとげを取り除いてくれるように3度も祈った。そして神様は取り去ってくれなかった。しかし、私の恵みは十分である。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
痛みの中で、功績を出せ。共にいてみわざをなされるのは、神である。
俺がやったという誇りがないように肉体のとげを与えた。
旧約聖書でも同じlことをいっている。ギデオンが戦ったときに敵にた対して12万対3万3千人を300人まで減らした。それは自分達の力で買ったということがないように。
肉体のとげ。→ 杭
キリストの十字架とはもともと杭。
パウロは最初主の意図をしらずに3度もとげを取り去って下さいと祈った。
パウロと神様との関係。
弱さにいきる。弱さこそキリストの力が完全に現わされる場だから。
私が弱いときこそキリストにあって強い。
人生を振り替えってみるとあの時はよく頑張ったな。いまなら無理だけれどということがある。
キリストの働きはキリストのささえ。弱いときに発揮される。
パウロだからこうなった。
神様は神様のみ心にかなってあなた方にふさわしいみ恵みをおあたえになる。

2008年4月 6日 (日)

2008年4月6日 主日礼拝「パラダイスに引き上げられて」

<聖書:IIコリント12章1-5>
12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に─肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、─第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、─それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、─
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

<メッセージポイント>

パラダイスー元々創造された人間と神との交わりの場。そこから開放された人間がキリストの贖いに酔って祝福を回復されるところ。パラダイスに引き上げられたパウロの経験は、パウロ自身に与えられたもの。誰にも奪われない、キリストにあるあなた自身のもの。キリストにあって歩み続け、ついにゴールへ行き着くべく、この祝福から離れないようにしよう。

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