みことば

2008年5月11日 (日)

2008年5月11日 主日礼拝「パキスタンにつかわされて」

<聖書:Ⅰコリント9章19-23節>
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、─私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが─律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
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<メッセージポイント>


2008年5月 4日 (日)

2008年5月4日 主日礼拝「物ではなく、あなた自信」

<聖書:Ⅱコリント12章11-17節>
12:11 私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
12:12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。
12:14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。
12:15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
12:16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。
12:17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。

<メッセージポイント>
コリントの教会の批判を受けて弁明することは、パウロにとってむなしいこと。それは自分の何かを誇ったり、悲しんだりするためではなく、主のすばらしさを証しするため。主が求めておられるのは、物ではなく、あなたがた自身ー人格・心。「愛すれば愛するほど、愛さなくなるのか」という悲嘆は主にある教会にあってはならない。

2008年4月27日 (日)

2008年4月27日 主日礼拝「イエス様の愛による自由」

<聖書:ヨハネ4章30-19,28-30節>
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」─ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである─
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

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2008年4月20日 (日)

2008年4月20日 主日礼拝「マイナスから始まる人生に幸あれ」

<聖書:イザヤ6章1―8節>

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

6:3 互いに呼びかわして言っていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。

その栄光は全地に満つ。」

6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

6:5 そこで、私は言った。

「ああ。私は、もうだめだ。

私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

6:7 彼は、私の口に触れて言った。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

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<山口師メッセージポイント>

新しい出会いを本当に今求めているか。

新しい出会いや人間関係を求めていくというよりも、世の中全般がなるべく限られた人たちとの関係だけに留まっていたいという人が多いのではないか。

結婚もそうである。結婚は安らぎであって、何で、家に帰ってまで苦労しなければいけないのか。

神様との関係はどうでしょうか。

神様にも同じことを感じていないでしょうか。

私たちに都合のよい神様にしてはいないでしょうか。

神様との出会いは、聖書の中ではそんなに穏やかにかかれていない。

神様と出会い、まばゆい光に照らされて、目が見えなる位、大きく人生が変えられたという人がいる。

あなたが本当に神様と出会うことを願うならば、あなたは生まれ変わって、新しい人生を始められる。

今日の聖書の箇所では、預言者イザヤを通して神の出会いをみていきたい。

短い箇所だが全く反対のことが書いてある。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

5節では、「ああ。私は、もうだめだ。

と自信を失っていた。絶望に沈んでいた。

ここにいます。私を使わしてください。と このイザヤを変えられたのは何か。

救いによる。

何から救われたのか。

借金地獄?家事の危険?

滅びからの救いです。

もう駄目だという状態からあなたを救う。

聖書の救いは、私たちを変えて、喜びを与えてくださる。

人が救われて新しい人生を歩むには何かが必要。

それが神との出会いである。

出会いというのは、何か特別な体験をすることなのか。

イザヤはどうだったのか。

二つの理由を言っている。

1)私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

2)しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」

イザヤは堕落した民より自分の方が上だと思っていた。しかし、神からみれば汚れたもの。

神は気のいいおじいさんではない。真の主権者である。

この神を見てしまったのだから死を意味する。

完全の清さをみて人は死ななければならないほどである。

もうだ目だという。マイナス的なイメージを、もっとポジティブな生き方をしなければならない。

もう駄目だと思ったこと。これこそがあなたが救われるためには必要なこと。

自分には罪があることを知ることが私たちの人生を変える第一歩。

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

主は救いの手をさしのべた。神はそのままにほってはおかれない。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

祭壇は神様に生け贄を捧げるためのところ。

贖われた=罪が覆われた。

これによりイザヤは神の前にああもう駄目だということの必要がなくなった。

これが罪からの救い。

この燃えさかる罪は、イエスキリストの十字架が救いとなって、私たちの罪をとり除いてくれた。

Iぺテロ2:23をみましょう。

このような歩みの中に入れられる。

この救いがどのように変えられていったか。

イザヤに始めて主のみ声が聞こえてきた。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

イザヤは救いによって変えられて、私をつかわしててください。といった。

神様のあわれみの救いが為されるときに変えられる。

大きなききめがある。

教会に来て優しい関係を楽しむことで終わるのではなく。

真の神とで会っていただきたい。

神は私たちに素晴らしい世界を用意してくださっている。

自己中心に気付きその罪を感じてください。

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2008年4月13日 (日)

2008年4月13日 主日礼拝「弱いときこそ、強い」

<聖書:IIコリント12章1-5>
12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

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<メッセージポイント>

信仰者は弱いときこそ強い? 奇妙? 絶対者なる方のみことばは、人間には逆説となる。これは人にはつまずきとなるが、苦難に満ちた人生を歩むものにとっては、大いなる励まし。パウロは積極的に自分の弱さ・痛みを誇り、キリストの力が宿ることを願う。「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」-この不思議に少しでも近づこう。

<詳細>
日本では昔から火事場の馬鹿力といわれる。
とっさの時には、とてつもない力が発揮されたり、痛いものも感じなくなる時がある。
今日は、「弱いときこそ強い」というテーマ。
聖書は神の啓示で書かれたもの。時には逆説的な表現を用いることがある。聖書の神がいるからlこのような表現がされる。
パウロがユダヤ教のキャリアであったら、弱いときに強いとは言わなかっただろう。もっと自分を誇っただろう。しかし、キリストのしもべとなった。キリストにある栄光は苦難であった。
自分の心が痛むことがキリストの僕としての栄光。
彼は神の啓示を受けた。誇ってもいいし、自慢してもいい。しかし神様はそのような経験を与えておきながら誇り高ぶらないように体にとげをおいた。
パウロをへりくだらせることになるが、高ぶることはないのに、とげをおいた。
肉体のとげとは何か。いろいろ学者が研究しているが、頭痛、目の弱さ、マラリヤ、てんかんなどと言われている。
パウロは人々から見た目にもいやがられる面があった。
突然発作的に襲ってくる。いつものことではない。間欠的に襲ってくる。
これさえなければ、もっと有効な働きができたというとげがあった。
パウロはこのとげを取り除いてくれるように3度も祈った。そして神様は取り去ってくれなかった。しかし、私の恵みは十分である。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
痛みの中で、功績を出せ。共にいてみわざをなされるのは、神である。
俺がやったという誇りがないように肉体のとげを与えた。
旧約聖書でも同じlことをいっている。ギデオンが戦ったときに敵にた対して12万対3万3千人を300人まで減らした。それは自分達の力で買ったということがないように。
肉体のとげ。→ 杭
キリストの十字架とはもともと杭。
パウロは最初主の意図をしらずに3度もとげを取り去って下さいと祈った。
パウロと神様との関係。
弱さにいきる。弱さこそキリストの力が完全に現わされる場だから。
私が弱いときこそキリストにあって強い。
人生を振り替えってみるとあの時はよく頑張ったな。いまなら無理だけれどということがある。
キリストの働きはキリストのささえ。弱いときに発揮される。
パウロだからこうなった。
神様は神様のみ心にかなってあなた方にふさわしいみ恵みをおあたえになる。

2008年4月 6日 (日)

2008年4月6日 主日礼拝「パラダイスに引き上げられて」

<聖書:IIコリント12章1-5>
12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に─肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、─第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、─それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、─
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

<メッセージポイント>

パラダイスー元々創造された人間と神との交わりの場。そこから開放された人間がキリストの贖いに酔って祝福を回復されるところ。パラダイスに引き上げられたパウロの経験は、パウロ自身に与えられたもの。誰にも奪われない、キリストにあるあなた自身のもの。キリストにあって歩み続け、ついにゴールへ行き着くべく、この祝福から離れないようにしよう。

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2008年3月30日 (日)

2008年3月23日 主日礼拝「自分の弱さを誇る」

<聖書:IIコリント11章23-33>
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむ
ちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
11:31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。
11:32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
11:33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

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<メッセージポイント>
パウロのキリストの信任状は傷痕。そのもっとも最たるものは教会へのたましいへの心づかい。主に従う者たちが、そのやさしさの故に必然的にになう痛みをパウロもになう。この痛みをになうことは、キリストもになわれた故に、誇りである。痛みをになう弱さの中に、主の支えとみわざがあらわされる。これは尋常ではないことー隠された神の奥義。


<詳細>
このキリスト教の歴史は2000年になる。日本でのキリスト教は短いのですがそれなりに受け入れられている。クリスマスや結婚式。あえて、キリスト教でという人もいる。またキリスト教の葬儀に感動される方も多い。しかしこれらは外から見えること。キリスト教の中身は見えない。
中身は何か。十字架にか勝手死なれ、そしてよみがえるという中身は隠されている。キリスト教の教会においてですら隠されているかもしれない。
しかしこれは分かる人には分かるが、かくされている。
コリントの手紙では、キリスト教の隠された大切な部分をい語っている。
すでに、見てきた。「誇り」。私たち誇りを傷つけられることがある。クリスチャンでも傷つけられ離れる人もいる。
信仰者花にを誇るのか。
主を誇る。主なる紙を知っていることを誇る。
羽うロハキリスト虚言うの隠された部分を妙な言い方をしている。
今日の聖書の箇所では自分の弱さを誇る。
謙遜、自分の罪を認めキリストに救われたも者は謙遜になる。
本当の意味で神様の前で自分は弱い人間という謙遜であればよいが不利をしている。思い込んでいるだけだと、はなにつく。昔から謙遜傲慢といっている。
パウロの自分の弱さを誇る。というのはどういうことか。
自分をダメ人間です。と誇りを傷つけられる。
自分の弱さを主が助けてくれる。主が私の弱さに現れてくれる。

パウロがあれだけ苦しんでできた。
日本の宗教の場合、その人個人の偉大修行を褒め称えられる。
パウロもそうだったが、性格の違った苦しみ。
教会への心配。一人一人の信仰に対する心配。
日本の修行僧が他の人のために何かを矢田かというおほとんどが自分のため。
パウロが苦労したのはすべて、人間のこと。
現代社会でも、セクハラ、パワハラ、とか苦しんでいる人がいる。
教会に来る人は人を見る目が厳しくなる。祖の炒めに苦しむことが多い。
人間のたましいのためにパウロは苦しんだ。
教会に来る人は何かを考えているとか何かを気遣っている繊細さを持っている。祖のために苦しむ人もいる。自分の潔癖さのために、他の人を受け入れられなくなる。

パウロの痛み。
紙を信じる、仕えるというのはどういう意味。
自分がつぶれてしまう位に苦しむ。
痛んでいる自分のそういう弱さを誇り、喜ぶのだ。
それはなぜか。痛んでいる弱さはキリストにおいてはダメではことではない。キリストが担っていたことと同じ。
キリストの僕、キリストのために苦しむ弱さ。
パウロは苦難や自分の弱さを誇る。最後のところでパウロは二つのことを行っている。
なぜこんなことが出てくるのか。上記の苦しみのうちのひとつの事件について思い立ったように語った。最初の迫害だったから。みっともない毛件をしたから。語っておる。
逃げ出すといったみっともない夜連れ出されて窓から逃げ出した。逃げ出して助かった。
主が与えてくださったから主を誇りとし、喜んだ。
キリスト教の外面の華やかさとは裏腹に、中身はキリスト教の苦しみ、痛み、復活。尋常ではない。隠されている。紙を知りたいと願う人に隠されている。
神様の愛を分かりたいと思うものだけにしか開かれていない。主から与えられている歩みを全うしたいと思う。

2008年3月23日 (日)

2008年3月23日 主日礼拝「主にあって死ぬ死者は幸い」

<聖書:ルカ24章1-9> 24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。 24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。 24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。 24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。 24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」 24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。 24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。 Image_039 <メッセージポイント> 後期高齢者になって死を考えるのではなく、聖書は誕生から死後に至る全てに死を組み入れる。命を造り、支配される神は、「死んだ後裁きを受けること」、「主にあって死ぬ者は幸いである」と言う。この死について明確に語る根拠はイースター。これは人のかんが得ることのできなかった神の奥義。人の齢を一息で終わらせる神こそが人生を確かなものとする。 <詳細> イースターおめでとうございます。 クリスマスに比べると普通の人には、言いにくいお祝いのことばです。 主が日曜日によみがえられたので、毎週教会では、礼拝をして、イースターを祝っているのです。でも、今日は一年の中でも、特に、イースターを記念した礼拝をおこなって、特別にイースターを考えていこうという日です。 私たちの行政は、年齢に分けてサービスが行われることが多いです。75歳以上は、最近、後期高齢者と呼ぶことになったようです。一般には評判が悪いようです。ついに年齢の断崖に追い詰められた感じがするということだそうです。皆さんの中に75歳以上の方がいらっしゃいますがどうですか。末期高齢者ならわかるがどうでしょう。 古代インドでは、4つのパートに分けていたようです。 0~25歳までは体を鍛える。 25歳~50歳は働いて、家族を養う 50歳~75歳は真の生きがいを見つけて生きる 75歳~100歳は自らの死について考える  ということだそうです。 聖書では、生まれた時から死に至るまで、自分の死について考えています。 なぜかというと、かみさまが語っているからです。いのちを与えた神は、人を地に帰らせます。しかし、人の生を確かなものにされます。 聖書の神だけが明確に語られています。24;1~8は毎年イースターの時に読んでいるところですがもっともイースターのことをはっきりと示しています。 初めて読んだ人は驚かれると思います。頭のいい日本人は、これは、宗教だから、なんらかの真理を教えるために、女たちが墓に行って見たと切り替えます。多くの人は疑問に思うでしょう。なぜこのような非科学的なことを言っているのか。かなりの人が一度や二度こういう経験をしているのではないでしょうか。 イエスさまは、クリスマスに生まれて、30歳になった時に十字架にかかって、死なれ墓に埋められたがよみがえってしまった。 いったいどう考えたらいいのか。 人間の能力やリセでは理解できる神であったら、その神がどんなに優れていても人間以上のものではない。 パスカルという人は人間には2つの行き過ぎがある。 ① は理性を全く排除すること。②は理性しか認めないことである。 ① は感情の高まり、盲目的で単純なものになってしまいます。鰯の頭も信心からということです。 ② は信仰を頭から否定することになります。理性の最後の大切な一歩は何か。私たちの理性を超えたものがこの世にはいっぱいある。私たちの理解を超えたものが無限にある。そこから始まる。 われわれは、理性をもって、キリストの受難と復活を次にように思っている。 キリストは先週の金曜日、十字架上で死なれた。律法学者がキリストのいやし、奇跡に対してにくしみやねたみを持って十字架に架けられた。 お前がキリストなら十字架から降りてみろといった。黙々としてしなれた。弟子たちはみんな逃れ隠れていった。 なぜ神は沈黙されたのか。イエスが死に墓に葬られるのをそのままにしていたのか。そこには誰も考えられない奥義があったのです。 奥義とは、神のみが知る考えです。 イエスが、宗教家から憎まれて殺されたのは、実は神がそうなさったということであります。 神の奥義は人々の憎しみによって殺されたのだが、それは神の救いの歴史ではあなたや私の罪の身代わりとして完全に死なれたのである。 神の奥義には人間はかかわれない。聖書のみが私たちにそれを伝え、わたしたちは従う。 神は、キリストを天地万物の創造主の死から救われました。 もしキリストがよみがえらなかったら、その後、弟子も、聖書もキリスト教もなかったと思う。エルサレムでしぼんで消えてしまったであろう。 キリスト教はほかの宗教と違う独自のものを持っている。2000年前と同じことを今日私は皆さんの前でお話をしているのです。聖書があるからです。聖書は変わりません。同じことを語っています。 人が死んだ時、我々は「ちよっと不幸があって」と言います。聖書の黙示録14章13節で、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』と説いています。死はだれにとっても歓迎される出来事ではありません。本来人は、死ぬことのない者として作られました。ところが、アダムの罪によって、滋賀入り、だれもが死ななければならなくなりました。 それから死=不幸なこととなりました。 四国で牧師をしている人が誤って車で海に落ちて命拾いをしたという話があります。死にたい、死にたいとそれまで言っていたのが、いざ死に直面する時には死ぬのは嫌だと思ったというのです。なぜそう思ったのか。このまま死んでしまったら、今までのろくでもない人生に決着がつけられては困ると思ったということです。瞬間的にそう思ったのです。 聖書には有名な言葉があります。へブル9章7節「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」 人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっています。 死に希望がなく確実にやってくるのが死である。死は不幸そのものである。 今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。不幸なはずの死を幸いに変えたものは、イエスキリストの十字架による罪の購いであり、主が勝利されたという復活の事実があってこそであります。死ぬことさえ、主にあって幸いである。 死ぬことは、わたしたちにはどうしようもないことであり、死を支配するかたに頼るしかない。 キリストにあって死ぬ者は幸いである、決してイエスは死の中に閉じ込められていなかった。 私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。 太宰治は今も人気のある作家です。突き詰めた生き方、それゆえ死んでしまう。太宰と聖書について、独特な関係がある。彼は良心をもって聖書を読んだ。しかし、読んでみると、つまずきしかなかった。あなたの敵を愛しなさいとかとてもできることのないことを求めてくる。聖書に悩まされて絶望をする。絶望するのはよく読んだからこそ。人は一度死ぬこと、死後に裁きを受けること。キリストのよみがえり、主に在ってキリストは死なれた。これは絶望である。 キリストの十字架、復活を私たちは信じているが、新の永遠のいのちにいたるものである。 死はどうしようもないことだが、よみがえれた主により頼むしかない。イエスをしんじているものは、イエスと同じように、しんでもいきるのです。 そのお方にお会いするために日曜日に礼拝に来る。この一年間も主にお会いするためにこの礼拝を守っていきたい。 Image_061

2008年3月 9日 (日)

2008年3月9日 主日礼拝「イエスはガリラヤ全土を巡って」

<聖書:マタイ4章23-25>
4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。


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<斎藤牧師 メッセージポイント>
42節「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
イエスさまは、ガリラヤ全土を巡ったが、歓迎されたところもあれば、そうでなかったところもあるだろう。また、イエス様はみんなを集めることができたにもかかわらず、あえて、自ら足を運んで各地のひとりひとりのお会いになった。全土を巡るということは大変なことであったに違いない。それは一人ひとりのところにおとずれて、福音をつたえるためであった。イエス様の救い主としての使命がそこに示されている。
イエス様は、まず、人々に教えた。
人は自分が罪人であること、それに囚われていて、そこから逃げ出せない現実を受け止めなければならない。人は神と和解して救い出される。
イエス様がガリラヤ地方に何をしに来たか。それは、まず、イスラエルの民たちを教えることであった。神の福音の約束をであった。第一にイスラエルに向けられたことは、イエス様がこられてのちは、その制限がなくなった。わざわざガリラヤにいる異邦人にもみことばを伝えることを考えてのことであった。
福音とは良い知らせのこと(キリストについての)である。
「宣べ伝える」と「教える」の違いを強調することは必要ない。共通する部分がかなりあるからだ。
「会堂で教える」とは、すでに進行を持っているユダヤ人がさらに、正しい理解を持つためである。
「福音を宣べ伝える」はまだ、キリストを知らされていない人々、異邦人へ伝えたのである。
ユダヤ人は唯一の神を信じてきたのでイエス様を神様と理解するには、教えが必要であった。
また、ガリラヤ地方の人々にもっと福音を伝えるべき人が多くいる。キリストによってもたらされる神の世。主の扱い、宣教と教えの段階がここに示されている。
3番目として民のあらゆる病気の癒しがなされた。イエスのいやしは、完全で、おことば一つでなされる。神の証拠としてなされたのである。力ある神のご支配、何でも解決できることのあかし。
私たちが主に向かうなら神は必ず、私たちにかかわってくださる。イエス様は神の国が地和いてきているのを実証された。
私たちは必要以上に病を自分の罪の結果と考え、裁かれることが多かった。しかし、そこにも神の許しの恵みはとどいている。
今の病の苦痛が、自らの罪からこようが悪魔のしわざであろうが、神の支配のもとでは、簡単に打ち砕かれる。神の支配のすべてを私たちは理解できないが、そこに、神の主権と節理が働いている。
キリストは教えを語るだけでなく、癒しを行いながら、ガリラヤ全土を歩かれたのは興味深い。
私は、イエスに向かわせる。イエスが去った後も、みことばが私たちを助けて下さる。
主のみわざは常にキリストと神の栄光を表すものである。
主の語るみことばが人々の心にとどまらなければならない。
マタイ8:8
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。

詩篇107篇20,21節
107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
107:21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。
イエス様による神の国のご支配の表れがある。いやされたものが単に病気だけではない。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

イエス様はガリラヤ地方で宣教をはじめたばかりだが、うわさになり、シリヤ全体に広まっていった。(ガリラヤより北)
その結果さらに、広い地域の人々が主のもとにやってくることになった。

4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

デカポリス、エルサレム地方だけに広まっているのではなく、パレスチナ全体に広まった。
イエス様の名は知れ渡り、大勢の群衆がイエスにつき従った。
病によるいたみにとどまらず、人間の苦悩が含まれている。
あらゆる種類の病人が連れてこられた。

私たちが心にとめておかなければならないことは、主が私たちに何を望んでいるかということである。
病気であることが当然ではなく、それがいやされて、健全であることをイエス様は願っている。
神の国がイエス様とともに存在していることを目に見える形であらわしている。
癒しの奇跡 恵みと憐れみのゆえに許されていること。イエス様が生き巡って伝えていた地域を越えて、人々が集まってきた。デカポリスとは十の町々が同盟を結んでできた町。ヨルダンの向こう岸、異邦人がたくさん住んでいた。イスラエルの北方地域の人たち。
主の救いを受けたものとして大事なことは、本当の病を患っているというだけではないく、わたしたちが罪の中にあるということである。
イエス様は、わたしたちを罪の中から救ってくださった。
神様との交わりにみちびいて下さる方。イエスのいやしは結果としてガリラヤ全土から人々を集めた。人々の足を運ばせた。そして期待していなかったことを見させてくれた。
最初は、いやし、そして悔い改め。心身の癒しを通じて、心も救ってくださった。
彼らの多くはしばらく突き進んだが、顧みられることはなかった。おエスの妨害的なうわさ。人気や評判はあてにならないことを知って神に忠実に信仰深く歩むことを願っている。
人々を教え、みくにの宣教をされた神のめぐみがここにある。
その主は、今も私たちの心に働きかけて下さって導いて下さる。
私たちの心が開かれ、信仰を通してしゅくふくされるものへと変えられていく。
15節最後のつき従ったといゆことばはイエス様の弟子になることも含んでいる。
私たちの信仰はどうか。
私たちのキリストの十字架がついていなければならない。しかしまだここでは示されていなかった。
今日、私たちにはみことばによって十十カが示されている。

2008年3月 2日 (日)

2008年3月2日 主日礼拝「傷痕の信任状」

<聖書:Ⅱコリント11:21-27>
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、─私は愚かになって言いますが─私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

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<メッセージポイント>
力、知恵、成果の誇りあいがぶつかる教会で、反対者に対抗すべく、パウロはあえて自らの労苦を誇る。誰よりも多い労苦―キリストのための傷痕―こそがキリストのしもべとしての信任状だと言う。キリストも自らの傷痕を示し、触れとみよと言う。キリストについて行こうとする者は、必ず傷痕を見、その意味を考える。その時言われる。「わたしの傷の示すわたしの愛に生きてごらん」
国と国との外交関係を持つ時に大使を派遣する。
だれでもいいというのではなく、この人を送りますという承認を得る。
このことをアグレマンといいますが、信任状をもらうことになる。

ーーーーーーーーー詳細ーーーーーーーーーー

今日の聖書の個所に出てくるコリントの教会では、信任の問題があった。
パウロを信頼しえない。パウロの宣教としての資格を認められない。
教会の働きの信任の問題。
パウロは反対する彼らにどう言って信任状を出したのか。
互いに誇りをもっているが、誇りがぶつかり合う。
人間は自分の力ややったことの成果を誇る。
キリストの救いを受けた私たちは何を誇るかというと主を誇る。
誇ることは、他人を見下すことになる。霊的に誇りは危険。
私は主を誇る。主が救いに心から感謝し喜び誇る。
それゆえ、平安を与えられ、神に仕えたいと願う。
今、パウロは、私は誇っていますという。
教会を荒らすにせ者たちが、成果を誇って挑戦してきたので、
わたしもあえて愚かになって誇ると言っている。
パウロは今まで寛容で穏やかであった。もしパウロが高飛車であったら彼らは、パウロを非難しなかっただろう。
人間的には、弱く見える謙遜を捨てて、自慢話をする。反対する人たちはどのように自慢するか。
旧約聖書的な伝統に固執するユダヤ人は何を自慢するか。俺たちはユダヤ民族。
コリントはギリシャ人などの外国人が多い中で、我々は、神の民、ユダヤ民族と誇る。
パウロはユダヤ人なのでユダヤ人を誇ってもしょうがない。
俺たちは血統のユダヤ人、パウロはユダヤの地に住んでいる純粋なユダヤ人ではなく離散の民、外国の地に住んでいたユダヤ人、異教文化の影響を受けたユダヤ人で自分たちとは違う。
私たちは生粋のユダヤ人、アブラハムの子孫である。
私たちはキリストのしもべ。パウロも私もキリストのしもべといった証拠というべきものがある。
それがあなたがたにはない。信任状というものがある。
信任状とは? キリストのしもべとしての信任状 → キリストのしもべとしての労苦。これが信任状。
彼は今までの労苦を誇る。自分の労苦をほこってもいいのか?
自分は労苦したが、あなたたちは何を労苦したか?キリストのしもべは自らを誇らない。自分の労苦を誇る。
これで反抗する人たちに対抗する慎みを捨てて誇る。
キリストのしもべとしての労苦は彼らよりも多い。偽物の攻撃を封じるのに有効であった。
今日の聖書のところには、パウロが受けた労苦の信任状が書いてある。(Ⅱコリント11:23~)
私は狂気したように言いますが・・・・。
一つ一つの言葉の中にある内容はパウロの経験したことである。
内容が濃い。この言葉の中に何があるのだろうか。これらのリストは彼の全生涯のリストではない。コリントに手紙を書いいるパウロは、これから殉教するまで8年かかっている。これから第3回伝道旅行がはじまり、その後ローマに行く。
私たちはパウロの労苦の1/4しか知らされていない。39のむち打ち(ユダヤの律法ではこれを超えてはならない)これを超えると外傷性ショック死になってしまう。
労苦はキリストのしもべの信任状。彼の体にきざまれたもの、傷痕、傷痕こそ、キリストの僕の信任状である。
天路歴程という本がある。霊的な本である。天に至るまでのクリスチャンの歩みについて書いてある。
信仰者がこの世での戦いを行って、キリストのもとに行くまでの話。
そこには、いろいろな人が出てくる。忠実な人、高慢な人、うぬぼれ師、自分勝手な人、おしゃべり、絶望な人、インテリ。その中の一人で、真理の勇者、かれはこんなことを言っている。今父のみもとに行こうとしている。これまで非常に苦労したが、この労苦をくやんでいない。それはほかの巡礼をする人たちのために与えよう。
私はクリスチャンとして生きていく時に、傷痕だけは、消せないで持っていく。
傷痕を主なる神が見てくれて受け入れてくれる。傷痕を自慢する誇ることだけが、キリストへの信頼と愛が刻み込まれたしるし、あかしなのだ。それをキリストのもとに持っていく。
現代、傷痕はあかしになる。お相撲さんの死亡事故で体中にあった傷痕を両親が見つけて、よく調べてくれということになった。
私たち信仰者においても傷痕は大事。イエス様は私たちを救ってくださったことを傷痕でしめしてくださった。あと3週間でイースターになります。イースターでよみがえったイエス様を一緒にいなかったトマスはイエス様の脇腹の傷を見て触らなければ信じないといった。イエス様は一週間後トマスの前にあらわれて傷跡を触ってみなさいと言った。トマスは傷を触るどころかその場で立ち崩れてしまった。
私たちは、53回の礼拝では話を聞くという形で礼拝をしている。説教は講演ではない。説教を聞いたからと言って礼拝そているのではない。
神様のことばを聞く。神様の語りかけを心熱く聞く。そして、応える。
今日のメッセージからいうと、トマスのようにキリストの傷痕に触れるかどうか、これが礼拝。
イエス様から、わたしのわきばらの傷痕に手をふれて応えなさいということ。ふれることはできない。触れることはできないが見なさいということ。キリストについてきなさいということは、キリストの背中を見なさい。その傷痕は、ケロイド状になっているのかどうかだけでなく、必ずその傷痕の意味を考えなければならない。私の傷が示す愛に生かされてみなさい。そこにしか、生きる場所はない。パウロにはイエス様と同じように傷痕がある。私もこの傷痕が私たちに示す愛、その愛に生かされてみる。
それが地上における祝福ということではないでしょうか。

2008年2月24日 (日)

2008年02月24日 主日礼拝「キリストに対する真実と貞潔」

<聖書:Ⅱコリント11:1-3>
1 私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。
2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

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<メッセージポイント>
神と人との結びつきについて聖書は2つの姿を語る。1つは、神によって造られた動物の自然な純な姿。もう1つは、花婿と花嫁の関係として― 即ち、教会は花嫁の清純さのように神への真実と貞潔を求められている。貞潔など今日死後に近いが、世がどう変わろうとも、神の持たれる真実と貞潔を拠り所として歩もう。

2008年2月17日 (日)

2008年2月17日 主日礼拝「あなた方を、人間をとる漁師に。」

<聖書:マタイ4:18-22> 18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。 19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 20 彼らはすぐに網を捨てて従った。 21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。 22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。 Image_009

<メッセージポイント 斎藤丈志牧師>ガリラヤ湖、異邦人が混ざっていて、そこにすんでいる人たちはエルサレムの人から蔑まれていた。ぺテロ、アンデレは漁師、取り立ててsぐれていた人でもなく、むしろとから蔑まれるようなガリラヤの漁師を選ばれた。(ヤコブ2:4)イエス様が選ばれたのは、優れた人ではなく、普通の人ヨハネ1にはすでに彼らとイエス様があっていることが示されている。シモンとアンデレはそれぞれの場であって汗して働く湖とを教えられる。日々の働きが進行とは関係ないと軽視されてはならない。すべては主の御手のなかにある。私たちが日日の中にある湖とを益として用いて下さる。私たちには困難を避けようとする性格がある。そのようなことを神は否定せず、その困難を乗り越えるために助けてくださる。彼らは前からイエスを知っており、実質的なイエスの弟子であった。しかし、彼らは職業を持っていたのだが、もっと直接的に使えるために職業も捨ててついていくことになった。備えの期間を経て、彼らを全く違った関係を作るために、イエスはここに現れて、召命した。人間をとる漁師へ変えられる。神の技をなす人。イエス様が変えられる。シモンとアンデレに求められているのはただ、ついてきなさいということだけ。自分を低くしてイエス様の姿に近づくこと。背後にある神様の導き。 4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。 4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。 家族も財産も、自分のものだと思って、自分ですべての責任んを追うな、イエス様に委ねろ。主に従え。イエス様の歩まれた道を私たちも歩ませてもらう Image_008

2008年2月10日 (日)

2008年02月10日主日礼拝「主にあって誇りなさい」

<聖書:Ⅱコリント10:12-18>
10:12 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。
10:13 私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。
10:14 私たちは、あなたがたのところまでは行かないのに無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは、キリストの福音を携えてあなたがたのところにまで行ったのです。
10:15 私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。
10:16 それは、私たちがあなたがたの向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです。
10:17 誇る者は、主を誇りなさい。
10:18 自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。

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<メッセージポイント>
知恵、富、力を誇るのではなく、主と、主を知っていることを、主に在って誇れ。美しく、素晴らしく見えるだけの、あいまいな、自分はまだましだとのささやかな満足による身勝手な誇りに仕えることは無意味。主を知る者は、種があまりにすばらしい方であるゆえに、身を低くし、にじり口から入り、仕えることに平安と喜びを得る。

2008年2月 3日 (日)

2008年2月3日主日礼拝「「キリストの柔和と寛容」

<聖書:Ⅱコリント10:1-6>
1 さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。
2 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。
3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

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<メッセージポイント>
柔和や慣用とは、お互いがただやさしく、丸く収め、皆がいい気分になることと思われている。しかし、キリストの柔和と寛容には、紙の人に対する罪への憎しみとそれを何とか赦そうとされる愛が背後にある。キリストは人の罪の痛みを自ら負うことによって憎しみを終わらせ赦す。キリストを信じる者として、痛みを理解し、負い、お詫びし、赦すあり方に近づきたい。

2008年1月27日 (日)

2008年1月27日 主日礼拝「良いわざにあふれよう」

<聖書:Ⅱコリント9:6-15>
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。
その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。
14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
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<メッセージポイ日本人は死やお金のことは、不吉、汚れ、いやしいこととして避けようとする。しかし、主はこれらを避けないで真正面からぶつかる。献金については、「祝福をもって蒔くものは祝福をもって刈り取る」と言って、徹底して神の祝福と断言する。世に言う「人生は総合力や」は、信仰者にとって、たとえ弱く、ふがいなくあったとしても、髪の祝福のみを目指す確信こそが人生の総合力。

2008年1月20日 (日)

2008年1月20日 主日礼拝「キリストの貧しさによって富む」

<聖書:Ⅱコリント8:9>
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

<メッセージポイント>
この世の豊かさは心を貧相にする。人を自分にかしずかせリッチな気分にさせるサービスをお金で買う豊かさは、人を傲慢にさせ、卑屈にさせる。キリストの豊かさは、いつでも裸になり得る豊かさ、与えても破れない豊かさ。このキリストが私のために貧しくなられたことが、私のものになるとき、真に富む者となる。貧しさにある者には、あふれる喜びの可能性がある。キリストに祝福された貧しさに生きよう。


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2008年1月 6日 (日)

2008年月6日主日礼拝 「あなたとともにいる旅人です」

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<聖書:詩篇 39篇12-13>

12 私の祈りを聞いてください。【主】よ。
 私の叫びを耳に入れてください。
 私の涙に、黙っていないでください。
 私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。
13 私を見つめないでください。
 私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。

<メッセージポイント>
地上から天を見上げ、神を信じていた人間が、半世紀前、天に飛び出し、天(上・神)から人間を見るという(神の見方)経験をした(宇宙体験)。神からの見方に立つ聖書は、地上のはかない生涯を永遠(神)を視野に入れて生きることを教える。ドロドロした生活を神による1度きりのことだと思って、神に与えられた魂と向き合い、最善を尽くして行こう。

2008年1月 1日 (火)

2008年元旦礼拝  「私の時は、御手の中にあります」

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<聖書:詩篇 31篇9-15>

9 私をあわれんでください。【主】よ。
 私には苦しみがあるのです。
 私の目はいらだちで衰えてしまいました。
 私のたましいも、また私のからだも。
10 まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。
 私の年もまた、嘆きで。
 私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。
11 私は、敵対するすべての者から、非難されました。
 わけても、私の隣人から。
 私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
12 私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。
13 私は多くの者のそしりを聞きました。
 「四方八方みな恐怖だ」と。
 彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。
14 しかし、【主】よ。私は、あなたに信頼しています。
 私は告白します。
 「あなたこそ私の神です。」
15 私の時は、御手の中にあります。
 私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。

<メッセージ>
今日のみことば、
「私の時は、御手の中にあります。」
私の生涯の出来事、経験は盲目的な偶然によってではなく、神の計画によってである。
過去、現在、未来の長い一直線の中に人は生きているが、過去と未来の境目に現在がある。
現在をどう生きているかで、過去も未来も変わってきてしまう。私の時は神の御手の内にある。
新年という区切りも神の御手のうちにある。
新年は何のためにあるか。
新年は死んだ人を思うためにある。と唄ったた人がいる。
なぜ自分よりも優しい人が先に死ぬのか。を考える。
悲しいことは、気付かないか、考えないで過ごす。
日本人は喪中として、あえて、人生でもっとも大切なことを避けようとするのは神の目からは罪ではないか。
新年は死んだ人を偲ぶためにある。
縁起が悪い悲しい出来事も神の御手の内にある。
この事を覚えつつ新年をスタートしたい。

2007年12月30日 (日)

ギ、ギーを越えておられる方

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(Iペテロ2章22節)

今年の世相を表す漢字は偽。儀は欺、疑に通じる。人も、社会も、信仰者の心も、すべて、ギ、ギーときしんでいる。年の絞めの朝、締めの言葉、完璧な言葉を聞く。「キリストは罪を犯したことがなく…偽りも見いだされませんでした。この方が、私たちのギ、ギーの上におられることが、この年を、いや私の一生を引き締める

2007年12月23日 (日)

馬小屋・物置小屋・牢屋の赤子

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2章6~7節)

馬小屋のイエス。物置小屋に住み、イエスを伝える婦人宣教師。イエスを伝えたがために獄屋に入れられた宣教師パウロ。人の罪の赦しのために、人となられ、人以下の死を遂げられた馬小屋のイエスの生き様に、天を仰ぎ、胸を打ち、黙す他ない者にとって、物置も獄屋も気にならない。「イエスの生涯―これが事実だった」とこぶしを握って、涙をため、神をほめたたえよう。

2007年12月17日 (月)

私を贖う方は生きておられる

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ19章章25節)

敬虔に生きてきたヨブは突然の災いと友の非難に苦しむ。その中で”私を贖う方”を見る。その方は隠れた罪を罰する神ではなく、ヨブの罪にもかかわらず、ヨブの味方となり、赦し、きよめてくださる贖う方。その様な方がおられなければならない。必ずおられると確信する。そのヨブの”贖う方”をはっきり示しているのが、クリスマスの主 イエス・キリスト。

2007年12月10日 (月)

恥の文化でなく、いさぎよく罪を

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。」(マルコ2章5節)

人の評価を土台にした恥の文化では、罪を突き止めることなく、せいぜい恥くらいで済ませる。「あなたの罪は赦されました」は、今日の人間の失くしたもの。この言葉を人はいつか必ず聞かねばならない。聞くためには、悔い改めてキリストの悲しみと愛を受け入れることが必要。恥程度で満足せず、クリスマスの主の前に探られ、潔く歩もう。

2007年12月 3日 (月)

支えられる教会

「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。」(マルコ2章3節)

律法学者を除いて、家に集まった人々、中風の人、四人のかつぎ手たちが教会を支える。安息日を週のとっておきのクライマックスとし、この日この場を失ったら、自らの内的滅亡につながるかも知れないと思う人、身動きできない罪びとだが、来れば何か新しく開けるかもしれないと思う人。他人の家の屋根をぶち壊す大胆さ、愛、危機感を持って、誰かのために戸板をかつぐ人…

2007年11月27日 (火)

良い地に蒔かれよう

「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4章19節)

主の前での人の様々な姿を現す4種の種は、恐ろしさと祝福の2種に分けられる。石地のように神のみことばをはねつけ、ついに枯れてしまう者ではなく、良い地に蒔かれた者でありたい。しかし、良い地とは、一人ひとりが造り出す地―キリストの愛と苦しみを知る者たちの手造りによる耕された地。枯れるか、生きるかの違いのわかる者となろう。

2007年11月20日 (火)

正しい人でなく、罪人を招くため

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2章17節)

イエスの言う正しい人とは―自分は神を信じている立派な人間だと思い、他を汚れた者とけなし、自分と区別することによって、自分の正しさに酔い、満足し、神に感謝している人。
罪人とは―いわゆる悪人であるだけでなく、自分の罪を知り、悲しみ、救いの必要を知る人。正しい人には、イエスの十字架の苦しみは意味を持たない。イエスは救いを必要とする罪人のみを招く。

2007年11月12日 (月)

主の誠実にのみ目を向けよう

「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」(マルコ3章21節)

神と人のために自分を削り与えることなど、この世では引き合わない生き方。しかし主イエスに接した者は、少しでも上の安楽な生き方より、自分を提供する生き方を喜びとし、充実したものとする。今日のゆがめられた愛(溺愛...etc)に翻弄されている者は、「気が狂った」と言われるほどの主の誠実に目を向ける。与えつくしても破れない主のもとに立ち返ろう。

2007年11月 5日 (月)

救うのか、殺すのか

「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」(マルコ3章4節)

まともにぶつかり答えるか、黙って無視するか。他人にも自分にもあいまいにしている私について主は「救うのか、殺すのか」と厳しく詰問される。しかし、私のために苦しまれた主は、まともに答えられない罪人たる私の全存在を受け入れてくださる。主からの詰問にハッとさせられ、次に、十字架に引き戻されてホッとさせられて変えられていく者となろう。

2007年10月15日 (月)

今は終わりの時です

「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」(Ⅰヨハネ2章23節)

神の御子イエスが世に来られたことは、神による新しい時代の始まり。これは「今は終わりの時(間)」と言われる。イエスの救いの祝福の時代であり、同時に御父と御子を否定する者(こと、動き)の反キリストの時代が始まったことでもある。神による最後の決着の終わりまでの間、キリストを信じる緊張と平安の生を全うしよう。

2007年10月 9日 (火)

世をも…愛してはなりません

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2章17節)

世にあるものを愛してはなりません。何故か。それらは滅び去るもの、いつまでも永らえるものではないから。また、それらは神から出たものではなく、人を神から引き離してしまい、真実に愛すべきものを無視する貞操なきものとしてしまうから。神を愛しながら、同時に神に嫌われるものを愛することはできない。

2007年9月25日 (火)

永遠の課題と永遠のいのち

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。」(Ⅰヨハネ2章10節)

愛し合うこと―永遠の課題。今日には、身勝手・理不尽な要求に自分の感情を押し殺し、ひたすら我慢して合わせなければならないという非人間的なやみがある。しかし神はこの絶望的な永遠の課題に対してキリストの決定的なみわざ(光り)である永遠のいのちをもって答えられた。この光の真実を見る者は、もはやうぬぼれたり自暴自棄になったりできない。

2007年9月10日 (月)

みことばはなんと甘いことでしょう

「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(詩篇119篇103節)

人はみことばを食して生きるように造られた。みことばには神の愛が満ち、この世のどんな情報・知識・経験に勝る賢さを持つ。みことばが真に甘いものとなるためには神が嫌われるものを捨て、神が見ておられることを意識し乳飲み子のように慕い求めなければならない。

2007年9月 3日 (月)

主は私への杯

「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16篇6節)

私の幸いは主のほかにはない。①主はどこでもいつでも相続財産・生きる土台②清濁合わされたよう運命とも言うべき様々な杯を最後の滴まで飲みつくした方③測り綱がどこに落ちるか、緊張と期待の人生―私の好む所に落ちたと言い得る信頼と平安に生きよう。

2007年8月27日 (月)

苦しみに会ったことはしあわせ

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119篇71節)

苦しみに会ったことはしあわせ―ほかの誰でもない「私」にとって!それは偽善でなく、やせ我慢でもない。詩篇の信仰者はすべての苦しみ―それらがキリストにつながり、神ご自身と神のおきてを学ぶことになるゆえ、最高の幸せと受けとめた。苦しみを通して、その都度、神から学びほぐされ、神が導こうとされる自分にあった幸せをとらえていく者であろう。

2007年8月21日 (火)

地では旅人です

「私は地では旅人です。」(詩篇119篇19節)

昔から人生は旅にたとえられる。聖書の旅とは、神の造られた地で神の世話によって永遠の本拠を目指し栄光をあらわすための限定された旅。神にふさわしくない余計なものをそぎ落としすっきりしたいもの。神に喜ばれない罪人の欲望 ―技術の進展と共に増大し、神の領域を侵すような欲望― にこれ以上先は望まないとの限りをつけ、神のおきてを喜ぶ旅人として生きることに平安を見出そう。

2007年8月16日 (木)

失くしもの―真の謙遜

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書14章11節)

上席か末席か。恥をかいたり面目を施すのはこの世の処世術。キリストは処世術ではなく、十字架の上に立って、神の前の真の謙遜―自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる―即ち、自分で末席を選べ、と言われる。上席を選ぶとは、神のなさるはずの評価を自分で決めること。末席を選ぶとは、神の評価にゆだねること。傲慢でもなく、卑屈でもないキリストにある謙遜に生きよう。

2007年8月 6日 (月)

人を恐れるとわなにかかる

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼するものは守られる。」(箴言29章25節)

「人を恐れるとわなにかかる。」今は、恐れなくても、信頼してもわなにかかる時代。人の顔を恐れると罪の誘惑というわなにかかり、不真実になり、罪の悔い改めができなくなる。「しかし主に信頼するものは守られる。」守られるとは高い所に置かれて危険から守られること。巷のあれこれに左右されず、見えないものに目を注ぐという次元の違うところで生きている故に安らかなのである。

2007年7月30日 (月)

永遠とつながって生きよう

「神はまた、人の心に永遠(への思い)を与えられた。」(伝道者の書3章11節)

人は目に見えるものではなく、見えないもの、永遠なるもの、神を信じるものとして造られた。その神は人間の宗教のつくりあげた人の思いでどうにでもなる神ではない。限定された生を生きる人間は、エデンの園ではないこの世で、移りゆく人の営みを永遠なる神への信仰による視点で洞察することが必要。みことばに親しみ、祈りによって永遠なる方との親しい交わりを生きよう。

2007年7月23日 (月)

すべて時にかなって美しい

「神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」(伝道者の書3章14節)

~に時がある神は配慮して多様な人生を与えておられる。その中で人が神への不信や疑いを持つことがあったとしても、「神のなさることすべて時にかなって美しい。」と告白させ得る。それは神が、その時がどのようになるか、さらに神にある最後の結末がどうなるか、すべて掌握しておられ、最善をなそうとされる神だからである。

2007年7月17日 (火)

落ち穂拾いの畑

「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない」(レビ記19章9節)

収穫後の落ち穂を拾って生活するみじめさなど誰も望まない。むしろ落ち穂を落としてあげる側に立ちたいと思う。しかし豊かになったからといって、あるいは拾うみじめさを味わった者が哀れみ深くなるとは限らない。人間はどうあっても罪人なのである。拾う者、落とす者、どちらであっても、落ち穂拾いの畑にあらわされた神のあわれみの原理に生き続けよう。

人生は試み

「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)

試練・試験・試み・・・すべて神なる御子イエスにある信仰によること。苦しみによる試練だけでなく、平穏の時にも、信仰者は日常的に試みられている。① 聖書をどう理解するかについて、②信仰者としてどう行動し、人に対応するかについて。何かを得ようとすれば、何かを捨てなければならない。あなたはどうするか、試みられている。4000年前のアブラハムの人間性と今日の人間性は、どちらがまともか、考えよ、と試みられている。

2007年7月 2日 (月)

代償の羊

「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)

イサクについてのアブラハムへの試練は、アブラハムの信仰を神が確認するためというより、アブラハムが自分の信仰を確認するため。また、この試練を通して、アブラハムは、人が罪のためにいけにえとはなり得ず、いけにえは、神自らが代償として備えられたものでなければならないことを確信した。祭壇―礼拝の場―は、人も神も苦しまれる場、そこは神が居られるところ。

究極の試練

「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22章2節)

アブラハムがイサクをささげる試練は究極の試練。「究極」の意味は、これがすべて神によること。アブラハムだけへの1回限りのもの。しかも人間をいけにえとする―あり得ない不合理な試練であること。この不可解・不合理な試練は、同じく人にとって不合理な神の御子の十字架を予告している。究極の試練は究極の救いを確信させる。

2007年6月11日 (月)

この子を残して

「彼(アブラム)の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされたのです。」(ヤコブ2章22節)

人生の苦しみは一般に「試練」と言われる。この「試練」とは元々、聖書からきたもの。聖書の試練は神を信じるが故の試練。試練は「信仰がある」ことのしるし。信仰者にとって試練がないことは最大の試練。聖書の信仰はおとぎ話の世界ではなく、生の現実の中でのこと。アブラハムの試練における神と人との信仰のあり方を知ろう。

2007年6月 4日 (月)

行な